『ルソン海峡は朱に染まる(2)』

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 アルゼブラ艦籍の航空母艦クシャーンの甲板上で、ヴァレリオはパイロットスーツを着たまま大の字になって寝転がっていた。太陽の光が燦々と降り注ぎ、パイロットスーツから露出している部分のヴァレリオの肌を刺激する。

 インド洋の熱気とも相まってヴァレリオは既に汗に塗れていたが、甲板から離れるわけには行かなかった。理由はこの空母クシャーンが国家解体戦争以前に就役した艦であるということが上げられる。

「やれやれ」

 と、呟きながら上半身だけを起し甲板の後方に視線を向けた。そこには仮設ハンガーに固定されたヴァレリオの愛機、グロリオーサが固定されている。これこそが空母クシャーンの最大の問題点だった。

 この空母クシャーンはアルゼブラの正規空母ではない。この時代の空母はネクストを初めとした地上兵力の展開も見越した設計になっており、強襲揚陸艦としての能力も持っているものが大半である。

 だが空母クシャーンは揚陸艦としての昨日を一応は持っているが、基本的に純粋な意味での航空母艦と大差はなかった。スリランカにあるアルゼブラの海軍基地から出航する前に、ヴァレリオはこの空母クシャーンの内部を一通り見て回ったのだが、それは酷いものである。

 整備はちゃんと行き届いており、そういう意味でのひどさはまったくなかったのだが艦船の形式として古すぎるのだ。元々、航空機だけを運用することを想定していたのか設計概念があまりにも旧式だったのだ。一応、改装は施されておりノーマルACならば格納庫に搭載できるようにはなっていたが、ネクストを運用するようにはなっておらずそのせいでグロリオーサは甲板上の仮設ハンガーで雨ざらしにされることになってしまった。

 甲板上から周囲を眺め渡し、空母クシャーンを守る巡洋艦や駆逐艦に目をやるがやはりどれも旧式である。これで有澤の艦隊とやりあうのは素人が見ても無茶というものだろう。

 有澤重工は日本列島を拠点としており、地理として四方を海に囲まれている。また縦長のその地形ゆえに上陸されると即座に劣勢に追い込まれやすい。そのため有澤重工の基本的な戦略構想は、上陸させないことにある。

 つまりは強大な海上・航空戦力に重心をおいて、敵が上陸する前に叩くのを前提にしていた。今のところ有澤は大きな戦いに参加することは無かったため、有澤海軍が具体的にどのような艦を運用しているのか、そのデータは未知数ではあるが兄弟であることは間違いなく、それと同時に海上戦力に限っていえば貪欲に新技術を盛り込んだ新型を続々と開発していることは間違いない。

 ヴァレリオが独自に集めた資料の中にもその一端が垣間見えていた。ミサイルが発達した今、海上戦力といえば空母、巡洋艦、駆逐艦、それに水上用のノーマルACといったところだろう。だが有澤はそこに戦艦を加えているという。

 ACが開発される遥か以前、まだ幾つもの国家が世界を支配していた頃に第二次世界大戦と呼ばれる戦争が起きた。この戦争で航空母艦の有用性というのが実証されたが、戦艦が無用の長物であるということもまた実証されている。

 戦艦は戦艦にしか通用しないものであり、またミサイルや火器管制システムが発達した現在、さらに戦艦は不要なものとなっていた。にも関わらず有澤は戦艦を既に三隻も就航させているという。

 有澤ほどの企業が何の考えもなしに戦艦を作るということも考えづらく、そこに何らかの思惑というよりかは戦艦の有用性を見出しているということなのだろうが、有澤が戦艦のどこに有用性を見出したのかはわからない。

 せめて有澤が開発したという大和級戦艦の情報があれば良いのだが、有澤内でも機密となっているのか情報はまったく手に入らなかった。せめて実戦での使用経験があれば良いのだが、大和級戦艦が実戦に参加したという記録は今のところ無い。

 パイロットスーツから煙草を取り出して、ガスライターで火を吐けた。吐き出した紫煙は強風に飛ばされてあっという間に後方へと流れ去る。香りを感じる暇などありはしなかった。

「大変ですな、リンクスも」

 後ろから声を掛けられて振り返ると、白髪に白い髭を蓄えた初老の男性が立っている。足が少々不自由なのか杖を付いていた。確か彼はこの空母クシャーンの艦長であると同時に、この部隊の指揮官だったはずである。名前はブリーフィング時に聞いていたのだが、忘れてしまっていた。

「大変かどうかはわかりませんが、こういう仕事だとは思っています」

 ヴァレリオがそう答えると、艦長はヴァレリオの横に並ぶと「よっこらせ」と言いながら隣に座った。

「いやぁ、甲板というものは照らされるとこんなに熱くなるものなんですなぁ。初めて知りました」

 笑いながら艦長は言ってみせたが、就寝と食事の時以外はここに釘付けにされているヴァレリオには笑えない。

「随分とご機嫌が悪そうですが、何か不満があれば仰ってください。とはいえ、あなたの大事な商売道具であるネクストは甲板に出しておくしかないのはご了承してください。なにせこのクシャーンを始めとして、この艦隊自体が旧式艦で構成されているものですから」

 ハッハッハッと、艦長は笑って見せたがヴァレリオからしてみればやはり笑えるものではない。有澤がGAグループである以上、東南アジアは対ブラックゴート社のために自分の所有地にしておきたいところだろう。それに東南アジアにはエネルギー資源もまだ残っているという。

 そんな場所に艦隊を派遣するのだったら、ヴァレリオでなくてもある程度の戦争についての知識がある人間ならば一番自身のある部隊を派遣するに決まっていた。有澤は新型の戦艦を含めて、最新鋭の部隊を用意しているのは明白である。

「私も吸わせてもらってもよろしいですかな?」

「お好きなように、これはあなたの艦だ」

「違いありません」

 クシャーン艦長も煙草に火を吐けた。いかにも煙草らしいにおいが嗅覚を刺激する。そのにおいがどこか老人らしいな、とヴァレリオに思わせた。

「敵艦隊の情報はお聞きになられましたでしょうか?」

「聞いてません。自身でも情報を集めようとしましたが、かなりの機密らしく集めることができませんでした」

「そうですか」

 老人は真っ青なインド洋の空を仰いだ。何か情報を教えてくれるのだろうか。

「実を言いますとな、私も知らんのです。敵艦隊の構成は教えてもらえませんでした。あるいはアルゼブラの諜報部でさえ手に入れることができないほどの機密だということなのかもしれません。わかったのはただ一つ、有澤は大和級戦艦というものを投入しているだろう。ただそれだけです」

「その大和級に関する情報は?」

 艦長は首を横に振った。何も無いらしい。大和級戦艦の情報が今、最も欲しい情報なのだがアルゼブラでも手に入れてないようだ。もしくは手に入れているのかもしれないが、この艦隊に情報を与えていないのか。

「ところでヴァレリオさん。お歳をお聞きしてもよろしいですかな?」

「三六です」

 隠すことでもないので正直に答えると、老人はどこか感慨深げな視線を青い海原へと向けた。

「三六ですか。私と二〇以上も違う計算になりますなぁ。となると、ヴァレリオさんに一つ頼みごとをしたいのですがよろしいですかな?」

「命令ですか?」

「そうですなぁ、命令と言っても良いぐらい私にとっては切実なお願いです」

「それは何です?」

「必ず生き延びてください。そしてできることならこの艦隊の乗員たちを守っていただきたい。おそらく、この艦隊は全滅することでしょう。何人生き残るかわかりません、ですがこの艦隊の乗員の平均年齢はあなたと同じか、もしくはそれ以下です。若者を、むざむざと死なせたくないのですよ」

 ヴァレリオはゆっくりと紫煙を吐き出す。こんなことを言われるとは夢にも思わなかった。そして一つの推測が当たっていたことも証明されてしまったのだ。この部隊はやはりアルゼブラにとって捨石だった。もしかしるとこの老艦長は全てを知っているのかもしれない。

 しかし彼はきっと誰にもそれを教えないだろう。そんなことをすれば士気に関わるだろうし、血気盛んな人間ならば彼と運命を共にすると言いかねない。

「ルソン海峡で死ぬおつもりですか?」

 艦長の目を見ずにヴァレリオは尋ねた。

「死ぬつもりは毛頭ないですとも。私は常にこの航空母艦クシャーンと共にあるだけです。ですが、クシャーンと共にあるのは私だけで充分だということですよ。なぜなら私はこの艦の艦長を務めて、今年で三〇年になりますからなぁ。人生の半分近くをこの艦と共に過ごしてまいりましたから、いまさら見捨てる気にもなれんのです」

「了解しました。善処しましょう」

「それはありがたい。できることならば、スリランカ。あるいはルソン島で再会することに致しましょう」

 それだけ言い残してクシャーン艦長はゆっくりと立ち上がり、杖を鳴らしながら艦橋へと戻っていった。おそらく、彼と会うことはもう二度とあるまい。そんなことを思いながらヴァレリオは煙草を甲板に押し付けて火を消した。


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 ブラックゴート社の保有する正規空母エクスキャリバーの右舷と左舷を繋ぐ通路をマッハは一人歩いていた。出航が間近に迫っているということもあってか、作業服を着た搭乗員達は慌しく働いており私服で歩いているマッハには目向きもしない。

 マッハの機体であるストレートウィンドは右舷格納庫に新型ノーマルであるクルセイダーと共に格納されており、マッハ自身の船室も右舷に与えられていた。よってマッハが左舷側に向かう理由はどこにもないのだが、乗艦して与えられた船室に置かれてあった一枚のメモ用紙によってマッハは左舷に向かうことにしたのだ。

 置かれていたメモ用紙には手書きで「君に合わせたい人物がいる、左舷食堂に生きたまえ。U・N・オーエンより」とだけ書かれており、それ以外のことは何も書かれていなかった。

 メモ用紙のほとんどは白紙であり、上部に小さな事務的な書体で書かれていたのがマッハの気を引いたのだ。出航まで間もないし、ブリーフィング時にオーエンからいつ出撃命令が下されることになるかはわからないと聞かされていた。

 そういったこともあり機体の調整をしておきたかったのだが、オーエンの直筆らしいメモ用紙が船室に置かれていれば無視することはできない。それに彼がマッハに合わせたいという人物に何よりも興味があった。

 というよりもそれは期待に近いかもしれない。ブラックゴートがGA社に対して反旗を翻す直前に行ったパーティで見かけた一人のウェイトレスの姿がマッハの脳裏から離れなかったのだ。

 そのウェイトレスが格別に綺麗だったのは確かだが、美人だったというそれだけの理由ではマッハの脳裏に焼きつくことはない。やたらと印象に残っているウェイトレスはオトラント紛争時、マッハと共にコンビを組んでいたベアトリーチェと非常に似ていたのだ。

 普通に考えれば彼女が生きていることはまず有り得ない。しかし例外というのは存在するのだ。マッハ自身がそうなのである。だが例外というのは決して多くないからこそ例外というのだ。彼女が生きているとは考えづらい。

 順当に考えれば彼女の曾孫がウェイトレスをやっていた、と考えるのが妥当だろう。彼女と血が繋がっていれば顔立ちが似ていたとしてもおかしくはない。ただ、気になるところが一つある。
ベアトリーチェによく似たウェイトレスはマッハと目があったとき、ウインクして見せたのだ。その理由は一体なんだろうか。ただのウェイトレスが招待客に対してウインクする理由がどこにも見当たらない。

 それにベアトリーチェが結婚して家庭を持つということも考えられなかった。彼女の性格上、そんなことは有り得ないと思うのだ。では、あのウェイトレスは何だったのだろうか。もしかすると、エクスキャリバーの左舷食堂にその答えがあるのかもしれない。

 本当に彼女がマッハの知るベアトリーチェなのだとしたら、もしそうだとするのならばアルテミスもまた生きているかもしれない、そんな希望がマッハの中に存在している。

 オトラント紛争後期、マッハはデスサッカーとの戦いで重傷を負った。そこまでは覚えており、気付いた時にはノーマルACではなく、ネクストの時代になっていたのだ。一種のタイムスリップを味わったといっても良い。周りに知っている人間は誰もいないのだ。

 既によぼよぼの、かつての見る影も無い老人だったとしても構わない。ベアトリーチェやアルテミスが生きているのならば会いたい。その気持ちがマッハの足を早くさせた。

 僅かな期待と共に左舷食堂に辿り着くとそこには誰もいない。今は食事時間ではないし、出航前である調理係でもない限り食堂に来るものはいないだろう。どこか陰になっているところはないだろうかと考えて食堂を一周してみたが、誰もいなかった。

 厨房の奥の方から食器洗いや仕込みの音が聞こえてくるぐらいである。もう一度オーエン直筆と思われるメモ用紙に視線を落とせば、確かに左舷食堂に会わせたい人物がいると書かれていた。

 もしかするとオーエンが合わせたがっている人間よりもマッハの方が早くここに来てしまった可能性もある。それならばここで待ったほうが良いと思い、食堂に設置されている自動販売機から紙コップのコーヒーを一杯購入し、食堂中央の椅子に座った。

 何もせずにただ待っていると実に様々な音が聞こえてくる。多くは厨房からだが、どこかで作業しているらしい金属音まで聞こえてくる。コーヒーを口に含むとひどく苦い、ミルクは入れたのだがどうやら砂糖を入れ忘れたらしい。

 とはいえ下手に砂糖を入れて甘くなるよりはこっちの方が良い、と考えながら熱いコーヒーを啜る。頭の中はオーエンが会わせたいと言っている人物で一杯になっていた。果たしてどのような人物なのだろうか。

 あのオーエンが会わせたいというのだ、只者ではないだろう。そして今回はユナイテッド・ステイツとの共同作戦ではなく、ブラックゴート社単独での作戦行動である。ユナイテッド・ステイツの人間が出てくることは考えられず、となるとブラックゴート社内の人間であると限定された。

 幾ら考えても思い当たる節はない。ブラックゴート社の依頼を多く受けているため、自然と知り合いは増えてくるのだが、知り合いを会わせようとは思わないだろう。となれば一体だれなのか。

 コーヒーの入った紙コップを机の上に置き、腕組みをして考え込む。オーエンのことだからマッハのまったく知らない人物だという可能性もあるのだ。さてさて、考えれば考えるだけわからなくなってくる。

 その瞬間、視界が閉ざされた。目の周りには暖かな感触があり、後ろから誰かが目隠ししたのだと瞬時にわかる。その手を左手で振り払い、右手でホルスターから銃を引き抜きながら後ろを振り返った。

 銃口を突きつけてやるつもりだったが、振り返った途端に動けなくなる。目の前の光景が信じられない。背後にたっていたのは二人の女性、二人ともブラックゴート社の士官服に身を包んでおり、大佐を示す階級章が付けられていた。

 だがそんなことはどうでも良い。今マッハの目の前に立っていたのは既に死んでいる、いや死んでいなければおかしい二人なのだ。恋仲だったローズ、相方だったベアトリーチェの二人がそこに立っている。

 思考が停止した。目の前の状況が信じられない。二人とも服装こそブラックゴート社のものを着ているが、顔立ちも体型も髪型も昔と何一つとして変わっていなかった。ありえない出来事にマッハはどうして良いか分からない。

 だというのにローズとベアトリーチェの二人は非常に落ち着いた様子で、何も言えないマッハを目の前にして二人して溜息を吐いた。

「なによ、せっかく恋人がこうして会いに来てあげたっていうのに。熱い抱擁のひとつぐらいしてくれたっていいじゃないの」

 言ったのはベアトリーチェである。この言葉にローズは反応し、ベアトリーチェを睨み付けた。

「誰が恋人だ。こいつは私の男であって貴様のではないだろう」

「何よローズ。前にも言ったけどね、私の後ろの処女を奪ったのは彼なんだから責任を取ってもらわないと」

「それを根拠にするなら私は両方ともミカミが初めてだ。ミカミ以外の男は経験したことがない、私は一途だからな」

 目の前で始まる痴話喧嘩を見ながら、マッハの視界は霞み始める。自分が泣いているのだと気付くことに数瞬の時間を必要とした。彼女たちと再会できるとは夢にも思わないことだったのである。

 死んでしまったもの、今の今までそう思っていたのだ。だが、彼女たちは理由はともかくとして生きていた。それが嬉しい。思わぬ再会がたまらなく嬉しかった、感情が溢れ出してしまって言葉が出ないのが悔しいほどだ。

 どうしてだかわからないがローズとベアトリーチェの二人に対して「ありがとう」と言いたい気分になる。再会できたことがたまらなく嬉しい、言葉にできないほどに。

 泣いているマッハに気付いたローズが歩み寄り、指でそっと頬を伝う涙を拭ってくれた。そして彼女は柔和な笑みを浮かべる。あのローズが微笑んでいることが嬉しい、それ以上にローズがここにいるという事実が何よりも嬉しかった。

 思わずマッハはローズを抱きしめ、声を上げて泣いてしまう。再会できるとは思っていなかった。彼女たちがどのようにしてこの場にいるのか、そんなことはどうでも良い。ただ、また同じ時を歩めることが何よりも嬉しかった。

 しかし、そんな喜びも束の間のこと。突如として下半身に激痛が走り、その場に転がる。蹴られたのはいわゆる男の急所、見上げればせっかくの再会だというのにローズは冷たい目でマッハを見下ろしていた。そしてベアトリーチェはというと口元に手を当てて可笑しそうに笑っている。

「ローズ……せっかくの再会なんだからせめてキスの一つぐらい……」

 股間を両手で押さえ、先ほどとは違う種類の涙を目に浮かべながら言ってみたがローズは鼻で笑うだけだ。こうなってくるとせっかくの再開もどこへやら、浮気をばらしたベアトリーチェが少し憎たらしくなって痛みに耐えながらも彼女を睨む。

 するとベアトリーチェは少しだけ前かがみになって「自業自得じゃないの」と笑いながら言ってみせた。

「それに私があなたと寝たって話したのはもう何十年も前のことだしねぇ、いいじゃないの。何十年分の鬱憤が金的一発で済んだんだから」

「いやまぁ、そりゃ確かにそうかもしれんが……」

 言いながら立ち上がろうとするがよっぽど強く蹴られたらしい、下半身全体が痺れるように痛み立ち上がれそうに無い。ここまで痛いと自身の生殖機能に損傷が及んでいないか心配になってくる。

 だが、失神するほどではないことから考えるにおそらく男性は無事だろう。それにローズがマッハに対して怒りを持っていたとしてもそこまでするとは思えなかった。

「さっさと立ち上がれ」

 そう言うローズはマッハの方を見ようともしない。相変わらず冷たい女、だがそこが良いんだと思いながらテーブルの端を掴みながら立ち上がる。それを見たローズは溜息を一つ吐くとちらりとマッハを見た。

 彼女と視線があった瞬間、ローズはマッハの胸倉を掴むと一気に引き寄せる。そして唇に暖かくそして柔らかな感触。僅かに唇を開け二人の舌を絡ませあう、瞳をローズへと向けると彼女は頬を赤らめて瞳を閉じた。

 ローズを抱き寄せるが抵抗しない。ローズの口腔内へと舌を侵入させるが彼女はそれを拒みもしなかった。何十年ぶりかになるキスをもっと味わいたく、さらにその先。もっと彼女を感じたくなるが今はそれが出来なかった。

 名残惜しくも唇をそっと離すと、恥ずかしいのかローズは背中を向けてしまう。自分もして欲しいのか、ベアトリーチェがじっとマッハを見つめていたがそれには気付かない振りをした。

 マッハにも自分が女好きであるという自覚はあり、魅力的な女性から見つめられると特定の女性がいてもそちらへふらふらと行ってしまいそうになるが、その特定の女性がすぐ側にいる状況ではさすがにしない。

「ねぇ、私にもしてよ」

 視線だけではなく言葉に出してまでベアトリーチェは主張してきたが、マッハそれを右から左へと聞き流す。ローズは相変わらずマッハに背を向けたままだが、それでも彼女が赤面しているだろうことは容易にわかった。

 懐かしい空気、ずっとこの雰囲気を味わっていたいと思ってしまうがけたたましく鳴り響くサイレンがそれを打ち破る。続く艦内放送で今から出航することが乗組員に告げられた。こうなってはこの場にいることは出来ない。

 左舷食堂に呼び出されたことを考えると、ローズとベアトリーチェの船室及び彼女たちが使用しているだろう機体は左舷側にあるのだろう。出航したとなるとマッハが左舷側にいるのはまずい、不測の事態が起きた時に対処が遅れる可能性があった。

「ったくもう出航か……悪いけど俺戻るわ」

「そうねぇ、私ももっと色々して欲しいんだけど……待機しないとならないものねぇ」

 惜しむようにして溜息を吐くベアトリーチェを横目で見ながらローズへと視線を向けると、彼女は相変わらずマッハとは視線を合わせようとはしない。とはいえ寂しいとは思わなかった。

 生きていることがわかったのだ。ならばこれからも会う機会はいつでも訪れるだろう。それに詳しい事情を聞く気は無いが、彼女らがブラックゴートにいるというのならばブラックゴート社の依頼を優先的に受ければ会う機会も必然的に生まれようというものだ。

「それじゃまた後でなローズ、ベアトリーチェ」

 それだけ言い残して右舷の船室へと戻るつもりだったのだが、ベアトリーチェが呼び止める。

「なんだよ?」

「その名前、ベアトリーチェって昔の名前のままで呼んでくれるのは嬉しいんだけど……今は本名のマリアで通してるから、マリアにしてくれない?」

「それは構わないけど、良いのか本名で?」

「えぇ、私もローズもブラックゴート社……というよりも今は本名をそのまま名乗ることにしてるから。ここの専属だから問題ないしね」

「そうか、それじゃあローズにマリア。また後でな」

 といって左舷食堂を後にし、右舷へと続く通路へと歩く。とりあえず船室に戻り持ってきた荷物の整理を行い、それから機体の確認を行おうと考えながら足を進めた。

 そして右舷側にたどり着いた時、ようやく後ろからずっと付いてくる気配に気が付く。船員が歩いているのだろうと思ったが、マッハの歩く速度は遅い。船員の大部分は作業に従事しているため早足で歩いている。となればもう追い越されていても不思議ではないのだが、後ろから付いてくる気配はどうやらマッハと同じ速度で歩いているらしかった。

 気にするほどではないのかもしれないが、別に後ろを振り向いたからといって何かが変わるわけでもない。歩みを一旦止めて後ろを振り返ってみれば、なぜかローズとマリアの二人が付いてきていた。

 マッハが振り向くと即座に二人は立ち止まり、マリアは視線をそらしたがローズはじっとマッハを見ている。さて、これはどういったことだろうかと考えても結論は出そうに無い。ならば本人達に聞くまでである。

「なぁなんで俺について来るんだ? 二人とも左舷に部屋があるんじゃないのか?」

「違う。右舷にある」

 ローズの返答に思わずマッハは首を傾げた。ならばなぜオーエンはわざわざ左舷食堂を再会の場所に選んだのだろうか。

「というか気付かなかったの? 格納庫に私たちの機体が置かれていたはずだけど」

 マリアに言われて格納庫にストレートウィンドを搬入した時のことを思い出す。確かに機体をハンガーに拘束させる時に、ホワイトグリントと同じ構成をした黒いネクストACの姿と、ACではないが左腕だけを赤く染めた黒い人型機動兵器が格納庫にあったことを思い出した。

「まさかあれ、お前らの機体なのか?」

 ローズとマリアの二人は同時に頷く。変なところでこの二人の相性は良いらしい。

 となると、ますますオーエンがなぜ左舷食堂に来るよう命じたのだろうか。三人とも右舷に船室があり、右舷に機体が格納されているのならば右舷側の食堂にしても良かったはずだ。

「疑問に思っているから答えてやろう。オーエン社長が右舷じゃなく左舷を再会の場所に選んだのは、ドラマチックにするためだけだ」

「はい?」

 ローズの言葉に素っ頓狂な声を思わず上げてしまう。ドラマチックにする、わざわざそのためだけにオーエンは右舷ではなく左舷に来るよう言いつけたというのか。

「あの社長そういうの好きだからあんまり考えちゃダメよ。どうもこういうことをやって普段たまってるストレス発散させてるみたいだから」

 溜息交じりのマリアの言葉には妙な信憑性がある。マッハの中にあるオーエン像といえば、謎が多くそして戦術・戦略に長けている程度ではあるが専属の彼女らはマッハの見ていないオーエンの姿も見ていて当然だ。

 となれば彼女らの発言を信じるべきだろう。それに彼女たちがマッハに対してこんなしょうもない嘘を付くとも思えない。

「となるとあれか、オーエンってのは割りとお茶目なやつ、っていうことか?」

 二人に問いながら自分に宛がわれた船室のドアノブに手を掛ける。マリアの部屋はすぐ隣らしく、彼女もドアノブに手を掛けていた。そしてローズは何故かマッハの真後ろに立っている。

「お茶目というよりも私が思うに変人だな」

 と言ったのはローズだ。

「そうねぇ。私もローズと同じ意見かな、あの社長どこか頭のネジがぶっ飛んでるところあるし。けれどリンクスとしても軍人としても優れてるのよねぇ……」

 またも溜息交じりのマリア。もしかしするとこの二人はオーエンによって色々と困らされているのかもしれない。そんなことを考えながら部屋に入ろうとすると、何かを思い出したかのようにマリアが顔を上げた。

「そうそう、あなたの寝室はローズと一緒だから。エッチなことするんだったら私も呼んでよね、隠そうとしても声はちゃあんと聞こえるから。じゃ、また後でね」

 と、手を振りながらマリアは自分の船室へと消えていく。彼女の言った言葉の意味が分からず、自分に宛がわれた船室の扉を見てみるとそこにはちゃんと二名用と書かれたプレートが取り付けられていた。

 後ろを見ると、ローズが早く開けろとでも言いたげな目でマッハを見上げている。仕方なく船室の扉を開けてみるが、どう見ても一人用だった。改めて室内を見渡すと不自然に部屋が広いことに気付いたが置かれているベッドは一つだけ。

 そして作業用に置かれているデスクと端末も一つだけなのである。どう見ても二人用の船室を無理やり一人用に改装してあるとしか思えない。部屋の中に入り、ここでどうやって二人も寝るのだろうかと考えているとベッドがやたら大きいことに気が付いた。

 この部屋に来てすぐ、オーエンが置いていたメモ用紙の指示に従い左舷に向かったために気付くことはなかったのだが、置かれているベッドはダブルのものである。つまりオーエンはローズと一緒のベッドで寝ろ、そう言っているに違いない。

 やれやれ、と思いながらもマッハの顔はにやけている。マリアの部屋はすぐ隣、そしてローズは同じ部屋。食堂で酒を仕入れることができたのならば、いやできなくとも時間の許す限りは昔話に花を咲かせたって良いだろう。

 そうでなければオーエンもそれぞれの船室を遠い場所に配置したはずである。ここはオーエンのお茶目、というよりかは好意に甘えるべきだ。


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 空母加賀の食堂で食後のパイプを吹かしながら強羅は基地内で買った本、「伝説の鴉たち」を読みふけっていた。向かい側の席でまだ食事を続けている同じGA所属のリンクス、メグはパイプの煙を迷惑そうにしていたが強羅は気にしない。

 加賀内部で煙草が吸えるのはそれぞれに与えられた船室と甲板、そしてこの食堂だけなのである。乗艦していると寝るとき以外を除けば船室に戻ることはまずない、今も緊急時に備えてパイロットスーツを着ている状態だ。

 甲板に出る用事もなく、そうなると必然的にパイプをやるのはこの食堂で、ということになる。同じことを考えている人間は多いのか、そこらじゅうから煙草の煙が上がっており天井付近は煙で雲が出来ているほどだった。

「タバコ吸うの止めてもらえませんか? ここ食堂なんですけど」

 メグの言葉を強羅は左から右へと聞き流す。視界の端でメグは少しばかり顔を紅潮させていた。

「俺が吸ってるのは煙草じゃなくてパイプな。それにここは吸って良い場所なんだから別に構わねぇじゃねぇか」

 いいながらページを一枚捲る。今強羅が読んでいるのはベアトリーチェの項だった。彼女はインディペンデンス紛争の途中からマッハとコンビを組んでおり、マッハが行方不明になるまでその関係は続いていたという。

 そして彼女の最後はというと、行方不明となっていた。本を読んでいると行方不明になっているレイヴンは意外と多く、感嘆の息を漏らしそうになる。しかし、考えてみるとそれも当然のことかもしれない。

 オトラント紛争後期から国家解体戦争が始まり、多くのレイヴンはノーマルACでネクストACと戦うことを余儀なくされた。その当時は情勢が混乱していただろうし、情報が錯綜していたに違いない。となれば行方不明者が増えているのも頷けることだった。

「タバコもパイプも吸わない人間からしてみれば同じタバコなんですが。それに強羅、食事を終えたのならば本など読まずにプレートをさっさと返却すればどうですか?」

 メグの言葉に読んでいた途中の本を空のプレートの隣に置いた。メグは強羅のことが余程気に食わないらしく、できることならば今にも席を立ってしまいそうな雰囲気を漂わせている。

「メグよ、レイヴンが生きてるっていう話を信じるか?」

「信じるもなにも、ノーマルACを駆るフリーの傭兵のことをレイヴンと呼ぶんですからそりゃまだレイヴンは生きてるでしょう」

 彼女は会話がしたくないのか、どこか投げやりな口調である。メグが強羅との会話を拒否したい気持ちはわからないでもないが、今から彼女に話そうとしているのは場合によっては重要な事柄なのかもしれないのだ。

 もっとも、強羅の仕入れた情報が間違いだという可能性も捨てきれないのだが脈がありそうな気がして仕方がない。ならば自分を嫌っている相手とはいえ、同じ仲間なのだから教えてやるべきだ。

「そういう意味じゃなくてだなメグ、インディペンデンス紛争から今まで活動し続けてるレイヴン……いや、元レイヴンがどうも三人ほどいそうだってな話だ」

 咥えていたパイプをパイプレストに置くと同時に、メグも手にしていたスプーンを法レートの上に置いた。そして睨み付けるようにして強羅の瞳を覗き込む。

「そんな与太話を信じると思ってるんですか?」

「その割には聞く気ありそうじゃねぇか? どっかで似たような話でも聞いたのか?」

「まさか、少し興味が湧いただけです。で、誰からそんな話を聞いたんですか?」

「今は赤城に乗艦しているフェルってリンクスからだ。なんでも彼女と仲の良いリンクス、ほらサリアっているだろ?」

 メグは静かに頷く。先ほどよりも眼光が鋭くなっているようだ。どうも彼女は彼女でどこからから情報を得ているらしい。

「人伝いだから本当かどうか分からないところはあるにせよ、マッハってリンクスはインディペンデンス紛争の時から活動しているらしい。それにブラックゴート社じゃ、他にも二人インディペンデンス紛争の時から活動しているパイロットを抱えているらしい」

「誰なんですそれは?」

「信じるのか?」

「話だけは聞こうと思っただけです、それで誰なんですか? そのブラックゴート社が抱えている昔からのパイロットというのは」

 言葉で答える代わりに机の上に置いていた本を手に取り、メグに目次のページを見せる。そしてアルテミスとベアトリーチェの二人の名前を指差して見せた。

「その本、読ませてもらっても良いですか?」

「構わないぜ」

 そのままメグに本を渡すと、彼女はプレートの上にまだ食事が残っているというのに本に目を通し始める。おそらく彼女が読んでいるのはアルテミスの項だろう、さりげなくベアトリーチェの項の辺りに指を挟んでいるのはすぐ開けれるようにするためか。

 彼女が情報収集というよりかは読書に勤めている間、交わす言葉は何も無い。空の食器プレートを返却しに行こうかと思ったが、それも面倒だ。パイプレストに置いていたパイプを口に加えて、再び吸い始める。

 メグはよほど本に集中しているのか、読み進めるのが非常に早い。この分だとアルテミスとベアトリーチェについてだけなら読み終えるのもあっという間のことだろう。

 その間、強羅はパイプを吹かしながら赤城に乗っている二人のリンクすのことを考えた。勇とフェルは上手くやっているだろうか、とはいえ二人とも既に仲は良さそうだったからこれは心配することでもあるまい。

 問題は、戦場で上手くやってくれるかどうかである。なにせ二人ともまだ若い。勇は専属だろうから日々の訓練もあるが、果たしてフェルの方はどうなのだろうか。それなりに戦闘経験はあるに違いないだろうが、今回のような大規模な戦闘に参加したことがあるのかそれが気がかりだ。

 国家解体戦争以降、ネクストが戦場の主役となってからあまり大規模な戦いは起こらなかった。強羅自身も艦隊と艦隊がぶつかり合うような戦場はあまり経験していない。それもこれも、ネクストACという兵器の特殊性に起因している。

 だが近年になってからネクストACの持つ優位性は失われ始めた。それは一体どこからだろうか、つい最近になってからのことであるのは間違いない。アームズフォートが出だしてからだろうか。

 いや、違う。ORCA事変の時もネクストは戦場で活躍していた。となるとORCA事変以降ということになる。第二次リンクス戦争も結局はネクスト同士が戦いあっただけの戦争だった。となればスター・アンド・ストライプスが出だした頃からか、となるとブラックゴート社が公に動き始めてからということにならないか。

 いつの間にか戦場の主役はネクストではなく、ノーマルACを含めた他の機動兵器に移りつつあるのではないだろうか、そんなことをふと思いついたがすぐに否定した。ブラックゴート社はネクストだけでサンディエゴ基地を強襲し、ICBMの発射を阻止している。ネクストの時代はまだ終わってはいない。

 だが、そんな中でも強羅の中にネクストの時代は終わりつつあるのではないだろうかという思いがある。特にこれといった根拠は無いが、ネクストという兵器が軽視されつつあるのは確実ではないだろうか。

 でなければアームズフォートという兵器は開発されることが無かっただろうし、有澤重工も大和級なる戦艦を建造することもなく、ブラックゴート社もアームズフォートほどではないが大型の機動兵器を建造することは無かった。強羅にはそんな風に思えて仕方がない。

 今、世界は、時代は変わりつつあるのではないだろうか。その時の変遷の中に自分たちは生きている。そう思うと妙な心持がしてくる、いずれは今メグが読んでいるような本に自分の名が記されることがあるのだろうか。

 できるならば後の世に名前を残したいものだ。軍人でなくとも、人間ならば誰しも一度は思ってしまうことだろう。しかし、自分の名は後世に残らないだろうと思うところもあった。

 ネクストの時代は終わりつつある、それはリンクスが注目されなくなるのというのと同じ意味だ。リンクスである強羅にとって悲しいことではあるが、そんなことはどうでも良い。

 フェルや勇などの未来ある者たちはどうなるのだろうか。確実にこれからの世界は今までと違う様相を呈すだろう。そんな中で彼女たちはどう生きていくのだろうか、彼女たちの未来に幸あれと思うが、彼女たちも軍人であり傭兵。所詮は人殺しだ。

 そんな彼女たちに幸福が訪れることはあるだろうか。それは今、強羅の目の前で本に目を通しているメグにも言えることだ。彼女とてまだ二〇歳なのである、先は長い。強羅からしてみれば子供同然だった。

 これからどうなるのだろう、そう思っているとメグに名前を呼ばれ強羅は我に返る。

「どうしたんですか? 物思いに耽っていたようですが?」

 本を受け取りながら「なんでもねぇよ」と言い返す。強羅が考えていたことなど、彼女たちにとってはどうでも良いことかもしれない。杞憂に終わるかもしれないのだし、若くして戦場を駆けているのだ。年齢以上に精神は逞しいだろう。そう信じたかった。

「でだ、どうだったよ?」

「戦史についてはそれなりに目を通していますが、その本は資料として素晴らしいものですね。機体構成から戦闘スタイル、果てにはプライベートまで。そのような本は見たことがありません、出版社と編集者には尊敬の念を抱くばかりです」

「参考になったか?」

「大いに」

 メグから本を受け取り、強羅は再び食器プレートの横に本を置く。そしてメグは食事を再開した。パイプは吹かしたままだったがメグはもう何も言ってこず、強羅が彼女に掛ける言葉も無い。

 ただ、彼女らが戦場から無事に帰れるよう祈るばかりである。

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