『その灯を点けるな(1)』

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 窓外の荒地を眺めながらブラックゴート社社長、U・N・オーエンは紫煙を吐き出した。今いるのはブラックゴート社の社長室である、眺めている景色はかつてロードアイランド州と名づけられていた地域のプロヴィデンスという場所に当たる。

 遠くにはナラガンセット湾が見え、青い色彩を与えているが眼下に広がる荒地には色調というものが皆無であり、海の青がありながらも彩と呼べるものは何もない。それはこの社長室も同様だった。

 窓から目をそむけて振り替えれば、そこには何もない部屋が広がっている。社長室にあったオーエンのデスク、来客用のソファとテーブル、部屋に彩を与えるために掛けられていた絵画、それら全てがなくなっていた。かろうじて壁と床にそれらがあったことを示す跡が残っているものの、それ以外には何もない。

 溜息を一つ吐く。こうなることを望んだのはあくまでも自分だ、とはいえ果たして完全に自分の意思だけで選んだのだろうか。インテリオルがブラックゴートの持つ光学技術に対して興味を持ってくれることが無ければ、GAに対して反旗を翻すなどという大胆な行動には出ることは無かっただろう。

「やれやれ……私は、本当に自分の道を歩んでいるのか疑問に思うよ」

 アクリル製の窓に持たれかかりながら天井を見上げる。今は電灯も取り外されており、天井だけ見れば廃墟と大差ない光景が広がっていた。もうプロヴィデンスにあるブラックゴート社屋は完全にその機能を停止している。

 今、この旧本社屋に残っているのはオーエンを初めとした数名だけだった。オーエンが最後までここに残る必要は無かったのだが、ブラックゴートは創設時から今までずっとこの地を動くことなくやってきたのだ。クレイドルが空を飛んでいたときも、ブラックゴートは地上にあった。

 だからだろうか、こうも感慨深い気持ちになるのは。インテリオルの計らいでブラックゴートはラインアークを手にすることが出来た。今後はそこが活動の拠点となる、地理的に見ても今より格段に都合が良い。もっともそれはインテリオルがブラックゴートとステイツの関係を知らないだろうからだろうが。

 もし知っているならば幾らなんでもラインアークを譲渡するような真似はしないだろう。
 しかし、とオーエンは天井を見上げながら空いている左手を額に乗せる。インテリオルがラインアークを譲渡するということは、インテリオルにとってラインアークはそれほど価値がなかったということだ。もしくは戦力を割いてまで守るべき価値が無かったのだろうか。

 ラインアークの位置を考えるのならばGAグループ、アルゼブラの二つと真っ向から戦わねばならない。対GAに情報を絞っていたので詳細はしらないが、アルゼブラもしくは有澤との熾烈な争いが待っているだろうことは容易に察しが付いた。

 左手を下ろし、視線を正面に向けると音も無く部屋の扉が開きセレが入ってくる。

「ノックは?」

「不要だと思いましたので」

「そうか、確かに今は不要だな」

 いつの間にかフィルターだけになっていた煙草を携帯灰皿にしまいながらセレの元へと歩いていく。

「準備は出来たのか?」

「はい、ハワイ諸島へ向かう輸送機の準備はできています。アマランス、ブラックゴスペルの二機は既に向こうに到着しており、我が社の整備班が既に作業に入っているとの報告も入りました」

「そうか……となるとこことはもうお別れか、二度と帰ってくることは無いだろうな」

「そうとは限らないでしょう」

 動かしていた足を思わず止め、セレを見ると視線がぶつかりあう。彼女がこんなことを言うとはいささか予想外だった。

「何故、そう思う?」

「マスターはここのデータを処分しただけで、建物自体は残しておくのでしょう? その行為はここに戻ってくる意思があるように思えます」

 思わず笑みがこぼれる。なるほど、言われてみれば確かにそうだ。本当ならばこの社屋を爆破してしまうが最も良い。そうすればGAにこの施設を使われることは無くなる。その危険性を冒してまで残そうとするのは、ここに戻って来たいという無意識がそうさせたのか。

「君の言うとおりだセレ。どうやら私は無意識ではあったがここに戻ろうとしていたらしい、ならばそれを言葉にしよう。我々はかならずここに戻ってくると、な。その時こそ、この停滞した世界に新たな可能性が芽生えるときだ」

「なら、戻ってくるのですね。ここに?」

「あぁ、そうだ。かならずここに戻ってくる」

 オーエンが断言したとき、セレが僅かに微笑んだような気がするのは果たして気のせいだったのだろうか。


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 アネモイが愛機アイオロスと共に真珠湾に到着したときにはもう他のリンクス達は来ているようだった。指定された格納庫に入り、ハンガーに機体を固定させてコクピットから半身を出してざっと中を眺めてみたがそうそうたる顔ぶれが揃っているらしい。

 まず、No.15マッハのストレートウィンド、No.32アリオーシュのブラックウィドウ、No.47ハーケンのニーズヘッグ。それらだけでなく、カラードNo.50であると同時にブラックゴート社の社長であるU・N・オーエンの機体、アマランスまでもが同じ格納庫に並べられていた。しかもその隣には黒く塗装されてはいたがラインアークが所持していたホワイトグリントまでもがある。

「ひゃあ、これはとんでもない顔ぶれさね」

 言いながらアネモイはコクピットから全身を出して地面へと降りた。地上へ降りた途端に喧騒が耳に入ってくるようだ。格納庫内は整備員達の声が響いていた。まさにこれから戦争が始まるのだと思うと、思わずアネモイの背筋が震える。

 戦うことには慣れているつもりだが、今回は今までとはあまりにも規模が違いすぎた。ブラックゴートの社長、U・N・オーエンが言うところによればこのミッションに失敗すればハワイは壊滅するという。

 GAが使おうとしている核兵器がいかなるものかアネモイは知らない。しかし以前に見たオーエンやマッハの様子から察するに、相当危ないもの、非人道な兵器であることには間違いが無さそうである。

 そんな責任のある、といえばおかしな言い方かもしれないがプレッシャーの掛かるようなミッションを受けるのは今回が初めてだった。もしアネモイ達が失敗すれば、ここで作業している整備員達は皆――

 と、そこまで考えてアネモイは思考を止める。今はそんなことを考えても仕方が無い、無駄な重圧を背負い込むだけだ。今後も考えるのは止めておいたほうが良い、自分に下手なプレッシャーを掛けてしまう。

 そう考えながら寄ってきた整備員に指示を飛ばし、ヘルメットを脱いだ。途端に油の臭いがキツイ湿った大気がアネモイの汗に濡れた皮膚に張り付いてくるような気がした。とりあえずはラウンジに行ってコーヒーの一杯でも飲みながら煙草を吸おう、そう考えながらストレートウィンドの前を通ろうとすると聞き覚えのある声に呼び止められる。

「アネモイか、今着いたのか?」

 声を掛けてきたのはマッハである。だが一瞬、アネモイは彼が誰なのか分からなかった。理由は彼が掛けている色の濃いサングラスにある。アネモイは今までに何度かマッハとプライベートで出会ったことがあるが、彼がサングラスを掛けているところは見たことが無かった。

「あぁ、マッハ。やっぱりこのミッション受けてたのかい」

「まぁな。核兵器と聞いちゃ黙っていられないし、オーエンの野郎にはこの機体を貰った義理もあるからな。ある程度は借りを返さないといけねぇんだよ」

 そう言ってマッハは愛機ストレートウィンドを見上げ、手にしているリストに何か書き込んでいく。整備作業の工程でも確認しているのだろう。

「この機体、ブラックゴートから貰ったやつだったのかい?」

「あぁ。ラインアークが崩壊した後にこいつを貰った、オーエンの野郎も憎たらしいことしてくれやがるぜ。どこで俺の戦闘データを手に入れたのか知らないけれど、こいつは俺にしか扱えないような仕様になってる。おかげでこっちも慣れるのに一苦労したよ」

「最近、活躍できなかったのはそれが理由かい?」

 アネモイが尋ねるとマッハはリストから目を離した。色の濃いサングラス越しでもマッハが疑問の視線をアネモイに向けているのがハッキリとわかる。

「何で俺のスコア知ってるんだよ?」

「そりゃ同業者の情報ぐらいは手に入れるさね。それよりもまたなんでサングラスしてるんだい? ハッキリ言って、似合ってないね」

 軽く笑って見せたがマッハはそんなアネモイの様子を特に気にした風もなく、またリストに視線を落とす。

「似合って無いのは百も承知だ。ただ今の眼をあんまり見られたくなくてね」

「怪我でもしたのかい?」

「いや、怪我なんてしてないよ。ただ今回はちょっとばかり本気だからね、あんまり本気の眼を見られたくない」

 アネモイは思わず笑ってしまう。本気の眼を見られたくないとは一体どういうつもりなのかが理解できないし、それにどこか子供じみたものを感じてしまったのだ。ただ、マッハの方はといえば本気らしく、不機嫌そうにほんの僅かではあるが口元を引きつらせている。

 それを見て「本気で言ってるのかい?」と尋ねてみれば即座に「あぁ、本気だとも」という言葉が返ってきた。

「じゃあ、どんなんなってるか外してみて欲しいさね」

 アネモイとしては至極当然な意見だった。彼が見せたくない本気の眼というのがどんなものか興味が湧くし、何よりも何故見せたくないのかというその理由が知りたい。

 マッハはといえば溜息を吐いて「やれやれ」とでも言うように首を横に振って見せた。あまり見せたくないものであるらしい、だからこそサングラスを掛けているのだろうが。とはいえ、隠されているとなれば余計に見たくなるのが人の性というものである。

「見せてくれないのかい?」

「見せるのは別に問題ないよ、ただ見る側の問題。自分でも正直、怖い目つきになってるなと思うからなぁ……後悔すんなよ」

「ハハ、その程度で後悔するわけないさ」

 と言ってみたもののマッハがサングラスをずらした瞬間にアネモイは背筋に冷たいものを感じた。サングラスの淵から覗くマッハの目は今までとは明らかに違っている。どこが違うのかといえばハッキリと答えることは出来ないだろう。だが、今までのマッハの眼とは明らかに違っている。

 その眼を直視した瞬間、アネモイは首筋を鋭い刃物で切りつけられたような気さえした。ただそんな気がしただけというのに、首筋に痛みが走り思わず思わず手で押さえてしまう。出血などしようはずもないのに、押さえていた手を離した後、血が付いていないか確認してしまった。

 そんなアネモイの様子を見て慌ててマッハはサングラスを掛けなおす。「だから嫌だったんだよ」という言葉と共に。マッハはリストにまた視線を戻したが、何か気になることがあるのかまたアネモイに視線を向ける。

「なぁ、アネモイ。お前、何でさっき首押さえたんだ?」

「え? 何でだろうね? 切りつけられたような気がしたのさ」

 言った途端、マッハは何故か手にしていたリストを落とした。書類はクリップボードに留められていたため散らばることは無かったが、マッハが動揺したのは明らかである。だが何故なのかアネモイには理解できない。

「お前……こっち側だったのか?」

「こっち側? どういう意味さね?」

「いや、分からないのなら良い。そっちの方が何かと、いや……だがそうだな。知らなくても問題ない、あぁ問題ないとも。そう、問題は、何も無い……」

 言葉の終りの方はどうも自分に言い聞かせているようだった。首筋を押さえたアネモイの行動が彼にとっては意味があったのだろうか、マッハは落としてしまったリストを拾うと再び作業に戻る。

 その背中がどことなく拒絶の意思を表明しているように思えたのでアネモイは当初の予定通りラウンジを目指した。


/3


「では君達ブラックゴート社PMC部門だけ、という言い方では語弊があるが、ブラックゴートのPMC部門主導で今回の作戦を進めたいというのかミスター・オーエン」

 そう発言したのはユナイテッド・ステイツのフォレスタル軍務長官である。今オーエンは真珠湾基地内にある会議室の円卓を囲み、GAのミサイルサイロ壊滅のための作戦を練っている途中であった。

 とはいえ、作戦の概要はもう既に決まっているため決めることといえば戦術レベルでの小さなものだ。だが、この会議が予想外に難航していた。

 理由はただ一つ。ブラックゴート社が率先してこの軍事行動に参加することをユナイテッド・ステイツはよく思っていない。企業が主導で作戦行動を行えば自分たちの面子が潰れてしまうからかもしれないからだ。

 ユナイテッド・ステイツは敵対しているGAであったとしても、完全に敵視しているわけではなかった。ユナイテッド・ステイツが望んでいるのは国家が支配する世界であり、企業そのものを憎んでいるわけではない。彼らに言わせてみれば企業は経済を成り立たせる上で重要なものであり、必要不可欠なものなのだ。しかし、彼らの資本主義的支配体制には問題があるとしている。

 要するに、企業は国家に管理されるべきなのだとそう主張しているのだ。企業からしてみればユナイテッド・ステイツはテロ組織かもしれないが、国家復権宣言と共にユナイテッド・ステイツは国と化した。足りないのは、経済活動を行う企業だけである。

 ブラックゴートがユナイテッド・ステイツ内の企業として活動を行っているが、中々どうして現在の世界情勢はブラックゴートが名実共にユナイテッド・ステイツ国内の企業になるのは難しい問題だった。法律上ブラックゴートはユナイテッド・ステイツ国内の企業ということになっているが、今の世界情勢を鑑みればそうすることは難しい。そのため名前だけは国内の企業ではあるが、実際は他の企業と変わりは無くユナイテッド・ステイツに協力しているというほうが正しいだろう。

「そういうことです軍務長官殿。ステイツ内で我々は一民間企業に過ぎません、しかし他の企業は私たちのことをそうは見ないでしょう。完全にブラックゴートをステイツ内の企業とするのならば、我々ブラックゴート社が他企業に対して明確な宣戦布告をしなければならないのですよ。ご理解いただけると嬉しい」

「それは建前で、本音は別にあるのではないのかね?」

 睨み付けるような視線と共に言葉を発したのは国務長官のハルであった。どうも彼はブラックゴート社、というよりかはU・N・オーエンという個人を嫌っている節がある。この名前の綴りが何を意味しているのか知っているならば、当然のことかもしれない。

「ご冗談をハル国務長官殿。我々は何も隠していませんよ、特に軍備状況は全て報告してあるはずですが……もうすぐ試験を行うレビヤタンU、それにまだ開発段階のファンタズマやセラフについても設計図から何から何まで開示しています。私たちはステイツの企業なんですから、国務長官殿が危惧なさっているようなことは何一つ行ってはいませんよ」

「本当かどうか信用なら無いね、企業というものは。国家解体戦争がその言い例だよ」

 嘲笑してみせるハルに対してオーエンは何も言い返すことが出来なかった。国家解体戦争を引き合いに出されてしまっては、言い返せる言葉が無い。どうやって話の矛先を変えようかとオーエンが悩んでいると、意外なところから助け舟が出てきた。

「良いじゃないかフォレスタル長官にハル長官、ミスター・オーエンはブラックゴートPMCの代表だ。彼の言うことを信じよう、それにそんなことを言い争ったとしても仕方が無いだろう。GAが我々に対して核兵器を使用しようとしているのならば、如何なる手段……いや、人道的な手段においてGAのミサイルサイロを破壊しなければならない。それに放射能汚染の可能性があるのだろう? ミスター・オーエン」

 ルーズベルト大統領の言葉にオーエンは頷いた。

「ミサイルを破壊した場合、誘爆する可能性は低いでしょう。そのようにしておかなければGA自身が危険ですからね、ですが被曝してしまう可能性があります。これを避けるにはコジマ粒子に汚染されている環境下でも問題なく行動のできる兵器でしか遂行は不可能でしょう。つまり、ACを除いては」

「ミスター・オーエンの言うとおりなんだよ、ハル長官にフォレスタル長官。我々はネクストに匹敵するノーマル部隊を持っている、しかしその数は充分とは言い難い。ここで下手に数を減らすような真似はしたくないし、ブラックゴート社でなければリンクスを三人も雇うことは出来なかっただろう。ここは彼らに任せたほうが得策だと、私は考えるね」

 この大統領の言葉には軍務長官も国務長官も反論は出来なかった。会議室にいるメンバーの顔をざっと見渡してみたが、誰も発言しそうな気配は無い。それを察したのかルーズベルトは息を吐き出しながら背もたれに身を預け、胸元で手を組んだ。

「発言は、無いようだね。だが全ての議題が終わったわけではない、とはいえ皆疲れているだろうからしばらくの間休憩しよう」

 ステイツにおいて大統領の発言は絶大なる権力を持っている、たとえそうでなかったとしてもこのルーズベルトの発言を無視できる人間はこの場にはいない。オーエン自身がそうであったし、この場にいる誰もが疲労の色を隠すことが出来なかった。

 小さく息を吐き出しながらオーエンも椅子の背もたれに体重を掛けると、壁際に立っていたセレが足音も無く近寄ってくる。何かあったのだろうかと思っているうちに彼女はオーエンの耳元でそっと呟いた。

「雇ったリンクスの一人、ハーケン・ヴィットマンがマスターと個人的な話をしたいと言っています。どうされますか?」

「ハーケン・ヴィットマンが? どのような内容かは聞いているのか?」

「いえ、聞きましたが教えてはくれませんでした。とにかく社長と個人的な話がしたい、ということでしたので」

「ふむ……」

 言いながら袖口から覗いている時計の文字盤に目を落とす。ルーズベルトがどのぐらい休憩時間を取るつもりなのか分からないが、この後の予定のことも考えるとハーケンと個人的な話をするのならばこの休憩時間を活用するほかは無さそうだ。

「申し訳ありませんが大統領閣下、少し席を外してもよろしいでしょうか?」

「あぁ、良いとも」とルーズベルトは快く了承してくれたので、オーエンは何も感じることなくその場を立つことが出来た。会議室を出るとハーケンは壁に持たれて待っているのが目に入る。

「私に個人的な話というのはいったいなにかね? ハーケン・ヴィットマン」

 オーエンが尋ねるとハーケンは壁から背を離してこちらを真っ直ぐに見てきた。

「いやまぁすぐ終わるような話だとは思うんだけど、ここでは少しあれだから別のところで話さねぇか?」

 ハーケンがオーエンの背後を気にしているようなので振り向いてみれば、トイレにでも行くのだろうか、何人かの出席者が扉から出てくるところだった。どうもハーケンは個人的な話というのを他人に聞かれたくは無いらしい。内心で、やれやれと言いながらもここはハーケンの要望どおりにしてやるしかないだろう。

「分かった、ではどこで話す?」

「すぐそこに自販機もある休憩スペースを見つけたんだ。今ならちょうど人もいない、話すのならうってつけだぜ」

「ならそこにしよう。早く案内してくれないか、時間が無いんだ」

「OK、OK。じゃあ早速行こうぜ」

 腹の立つ言い方をする男だ、と思いながらもオーエンはハーケンの後に付いていった。数歩と歩かないうちに早くしろ、と言いたくなったがぐっと堪える。

 どこまで遠くに連れて行かれるのだろうかと考えたのだが、目的地は意外なほどに近かった。何せ会議室への扉がある廊下を一度曲がっただけ、壁一枚隔てた向こうは会議室と言うところに自販機と二つのベンチが置かれた休憩スペースが設置されている。

 ハーケンは自販機で缶コーヒーを二つ買うと、その内一つをオーエンへと投げ渡す。どうも彼は自分の立場、相手との関係性が分かっていないところがありそうだ。それがわざとなのかどうなのかにせよ、オーエンとしては腹立たしいことに変わりはない。

「わざわざありがとう、ハーケン君」

「そんな呼び方しなくてもいいじゃねぇか、同じリンクスなんだしよ」

 言いながらもハーケンはベンチに腰を下ろしてプルタブを開けている。

「確かに、君と私は同じカラードに所属しているリンクスだ。だが決定的な違いがある、私はリンクスであると同時に一つの企業を背負っている社長だ。だが、君はどうなのかな?」

「俺だって副業はしてるぜ」

「それは表立って言える仕事かい?」

 微笑みながらオーエンは言った。もちろん相手を刺激するためだ。予想通り、ハーケンの目つきが変わる。但し、オーエンは怒ると思っていた、だというのに彼の目は笑っていたのだ。思わず眉間に皺を寄せてしまう。

「俺のこと調べたのか?」

「当然だ。雇う人間の素性は洗いざらい調べることにしているからな、君が裏では何をしているのかぐらい知っている。もちろん、それを他人に教えるような真似だけはしていないしこれからもすることは無いから安心してくれたまえ。大事なことだから念押しに言っておくが、これは本当のことだ。疑うのは勝手だが、そうなると損するのは君だということを覚えておきたまえ」

「損するのはそっちかもしれないぜ? まぁいいや、俺の副業知ってんだったら話は早い。俺を雇わないか? U・N・オーエン」

「寝言は寝て言え」

 言ってからオーエンはハーケンの隣に腰を下ろした。

「あ、でも話をする気はあるんじゃねぇかよ」

 笑いながらこちらを見てくるハーケンの額に懐から取り出した拳銃――レイジングブル――を突きつけ、撃鉄を起す。途端、ハーケンの顔が引きつった。

「君は、ここに銃を持ってくることが出来たか?」

「で、出来るわけねぇだろ! ここまで来るのにどんだけセキュリティゲートを潜らなきゃいけなかったかあんたなら知ってんだろ!? 無理だよ無理無理!」

「それは私も一緒さ、なにせ国務長官に目の敵にされているからね。だが、私は人を簡単に殺傷できる武器を持ちながらセキュリティゲートを潜って来た。止められることなくね、理由は簡単さ。いかに強固なセキュリティとはいえ完全ではない人間が作ったものだ、完全であるはずがないだろう? 抜け道なんていくらでもあるのさ、それを探る人間を養成する術を我々は持っている。一々外から雇う必要なんて無いんだよ、大体外の人間を雇ってうっかり口を滑らされたりしたらどうする? ん? そのリスクがわかるかい?」

「あ、あぁ。わかった、わかったよ。分かったからその銃を下ろしてくれよ」

 何が恐ろしいのか、たかだか実弾の込められた拳銃を額に突きつけられているだけだというのにハーケンは汗をかき始めていた。充分、威嚇にはなっただろうと判断し懐に拳銃をしまいなおす。

 反撃があるかと警戒していたのだが、ハーケンはそんな様子を微塵も見せなかった。少なくとも激情に駆られることはないらしい。もし、この程度で感情の流れに身を任せてしまうような輩ならばここで撃ち殺した方が良かったのだが、そのような男ではなくてオーエンは正直なところ少しだけ安心していた。

 一〇万コームという大金をはたいて雇ったリンクスだ、粗製では話にならないのだ。加えて今回は失敗が出来ないというのに。

 立ち上がり、その場を去る前にまだ口を付けていない缶コーヒーを座っていた場所に置いた。彼の好意は素直に受け取りたいところだったが、会議室に缶コーヒーを持って入るわけにはいかない。

「ハーケン君、君の好意は嬉しいのだが、ちょっとこれは会議の場では持ち込めないのでね。すまない」

 背を向けて会議室へと足を向ける。罵声の一言でも飛んでくるかな、と期待に似た感情で待ち構えていたのだが不思議となかった。まぁ、心の中で言っているのだろうと勝手に思い込みながら会議室へと向かう。

 しかし、嘘を吐く必要性はあったのかが気になった。実のところをいえばセキュリティゲートを潜りはしているが、拳銃の持込は許されている。大統領も国務長官も、誰もが護身用に拳銃を所持していた。

 理由は簡単、意外なところから裏切り者あるいはスパイが姿を現して暗殺という行為に及ぶ可能性をほとんど無いに等しかったが、無いと断言できない以上護身の必要性はある。そのため会議の出席者には拳銃の所持が半ば義務付けられていた。

 しかし、ハーケンに嘘こそ吐いたものの、不完全な人間が作ったものが完全であるはずがなく、実際にセキュリティゲートの穴をオーエンは見つけている。今、模索している支配体制についても絶対に平和をもたらす、いや安寧をもたらすような支配体制を築くことは不可能だろう。

 人類が歴史を刻み始めてから長い時が経っているが、その中で完全と呼べる支配体制は生まれることはなかったのだ。でなければ革命など起ころうはずもないし、国家解体戦争も起こることは無かっただろう。

 そして今までの歴史には無かった企業による支配体制が生まれたが、これもまた完全ではない。一見すれば平和そのものに見えたとしてもそれは完璧な差別的社会であり、同時に利益を最優先としているため資源を無駄に食いつぶしている。オーエンはこの企業支配体制は歴史上、幾つも発案された支配体制の中で最も愚かなものだと信じて疑わない。だからこそそれを打倒するための戦いを行っている。

 だが、その先に何があるのだろうと思うのだ。管理者、IBISの力を使えば全体主義社会が出来上がるだろう。しかしそれは上から押し付けるだけのものであり、いずれは崩壊あるいは革命が起きることを歴史は教えている。かといって民主主義は国民全てに一定以上の知識と政治に参加するという意欲が無ければならない。そうでなければ企業が国家に対して反旗を翻すなどということにはならなかっただろう。昔、ある政治家は民主主義とは最も愚かな支配体制だ、と言ったことがあるという。オーエンもその通りだと思っている。

 だが民主主義は多くの人間が政治に参加することが出来るのだ。より多くの人間が政治に参加すればそれに比例して新たなるものが出てくるかもしれない、オーエンはその可能性に賭けていた。その可能性がどれだけ低かったとしても、決して諦めるわけにはいかない。諦めてしまえば全ての可能性はそこで全て費える。

 だからこそ、この戦いにはなんとしてでも勝利せねばならないのだ。心機一転させオーエンは再び会議室へと舞い戻る。


/4


 アリオーシュは真珠湾基地で自分に宛がわれた部屋を見て驚かざるを得なかった。未だ真珠湾基地は一部施設を除いてまだ損害から立ち直っておらず、アリオーシュが宛がわれたのは仮設された施設内の一室だったのだが部屋の中は仮設とは思えないほどである。

 しっかりと空調設備は整えられていたし、折りたたみ式の簡素なものではあったがデスクがきちんと用意されておりその上にはネット環境が整えられたラップトップ型PCが備えられ、その横にはA四サイズのプリントが一枚置かれていた。

 何が書かれているのだろうかと読んでみると堅苦しい文章がずらりと並んでおり、最下部にはIDカードが張り付けられている。プリントにはそのIDカードがリンクス用のものであることと、基地内を歩く時はそのIDカードを必ず所持することと可能ならばクローゼット内にある制服を着用して欲しいということだった。またPCを初めとし、室内のものは自由に使ってくれていいということまで書いている。

 室内を改めてざっと見渡すと確かにクローゼットが用意されていた。仮設施設にしては珍しいなと思いながら開けてみると、ハンガーが三つ用意されており、そのうち二つには何も掛けられていない。残る一つには紙に記されていた通り制服が吊るされていた。

 試しにハンガーごと制服を手にとって見てサイズを確認すると、ちょうどのサイズであることがわかる。いつの間に調べ上げたというのだろうか、いやもしかすると標準的なサイズを用意していただけかもしれない。アリオーシュの体型は女性として標準的なものである、だから標準サイズがぴったりあうだけのこと。

 そのように考えながら制服のデザインを確かめようと思い、ベッドに腰掛けながらハンガーから制服を取り外した。ステイツにとってリンクスはどの程度の扱いになるのか、この制服のデザインを見ればわかるだろうと思ったのだ。だが結果からいえば、それは分からなかった。

 何せそれはステイツの誰もが着ていないデザインの服だったからである。尉官用の制服に似ているような気はするが、それが元となっているだろうという程度であり遠目には同じに見えてもまったく別物であることが分かった。となれば、雇ったリンクスのためだけにこの制服を用意していたということになる。

 思わずアリオーシュの心臓は高鳴った。ここに来るまでユナイテッド・ステイツは規模が大きいだけのテロ組織だと思い込んでいたのだが、どうやらそれは違うらしい。明らかに体系立てられており、軍としての規律もしっかりと存在していることがこの制服のデザイン一つからも窺える。

 一体ユナイテッド・ステイツはどれほどの規模があるのだろうか、仕入れた情報によればハワイ諸島とミッドウェーはユナイテッド・ステイツの領地となっているという。もちろんそれを企業連は認めてはいないのだが、実質的にはユナイテッド・ステイツの領土であるのは誰の目から見ても明らかだった。

 考えてみればここまで広大な領土――といってもほとんどは海だが――を手にしたテロ組織などあっただろうか、記憶を探ってみるがそのような組織は無かったように思える。規模が大きいと言われるテロ組織はいくつもあるが、こうも大胆に堂々と我々の拠点だ、と企業に対して言い張る組織は無かった。どのようなものであれ、地下に隠れて地道に活動をしている。だが、ここは明らかに違う。もうテロ組織の枠組みを超えていた、では何なのかと問われればこう答えるしかないだろう、国家である、と。

 ごくり、と思わず唾を飲み込んだ。ブラックゴート社がユナイテッド・ステイツとの協同作戦を行うことは事前に知らされはしていたが、そのユナイテッド・ステイツがここまでの規模を持っているとは夢にも思っていなかった。しかし、ユナイテッド・ステイツの規模が既にテロ組織の枠を超えているということを知っている人間はどれだけいるのだろうか。

 可能な限り情報収集を努めていたアリオーシュでもここまでの規模だとは知らなかった、だがリンクスは知らなくとも企業の上層部は知っているだろう。それもGAは具体的に把握しているに違いない、だからこそ核兵器などという非人道的大量破壊兵器を用いようとしているのだ。

 もし、ユナイテッド・ステイツが既に国家と呼んでも差し支えないほどの規模を持っているということを人々が知ったらどうなるのだろうか。大きな運動が起こることは間違いないだろうが、それがどれほどのものになるかアリオーシュには想像できなかった。

 驚きの連続のせいか、制服を持つアリオーシュの手は僅かではあるが震えている。それに気付き制服を丁寧に畳んでからベッドに置いた。そのまま横になろうとしていると部屋の扉をノックする音が聞こえる。

「よいしょ」と言いながらベッドから起き上がり扉を開けると、そこには一人の女性が立っていた。年齢はアリオーシュとさほど違わないだろうが、黒い髪は濡れているかのように艶やかで、瞳は妖艶な輝きを放っておりセックスアピールに満ち溢れている。同姓ではあったが、アリオーシュは彼女の美しさに一瞬だけ見とれてしまう。それと同時に、どこかで彼女を見たことがあるような気がするのだ。

「はじめまして、私ブラックゴート社のマリアと申します」

 そう言って彼女は名刺を受け取り、反射的にアリオーシュも自分の名刺を差し出した。とはいってもその名刺にはリンクス名とカラードでのナンバーしか書かれていない粗末なものではあるが。

 互いの名刺入れにそれぞれの名刺をしまいなおしてから、アリオーシュはマリアを自室へと招きいれた。

「どのようなご用件でしょうか?」

「いえ、用事というほどのことはありません。ただ私共と共に戦ってくださるリンクスがどのような方なのかと思いまして、その挨拶回りです」

 笑顔で言葉を並び立てる彼女の作られた笑顔を見ていて、彼女をどこかで見たことがあるような気がし始めた。しかし、それをどこでみたのかが思い出せない。

「どうされましたか?」

 知らずの内に彼女の顔を凝視していたらしい、首を傾げて尋ねてくる彼女に対してアリオーシュは思っていることをそのまま伝える。すると彼女は微笑んだ、今度は作り笑いではない本当の笑顔だ。

「それは当然でしょう、思い出せないことも仕方ありませんから。私あなたも参加されていた我が社のパーティではウェイトレスをしていたものですから、その時に見かけていたのでしょう」

 確かに、そう言われてみればそうかもしれない。ウェイトレス一人一人の顔を鮮明に覚えているわけではないが、マリアのようなウェイトレスがいたような気がする。ただ、やたらと目をひきつけるウェイトレスが二人いたのは確かだ。

 そういえば、そのうちの一人が彼女に似ている気がする。ということは彼女の言っていることは真実なのだろう。

「あ、そうでした。用件が無いと先ほど言いましたが、うっかりしていました。実はあなたに尋ねたいことがあって来たんですよ……ただ、少々お時間が掛かるかもしれないので出来れば……」

「どうぞおかけになって下さい」

 アリオーシュが言うと「失礼」と一言言ってからマリアはデスクの前の椅子に座る。この部屋にある椅子は彼女が座った椅子一脚のみで、アリオーシュはベッドに腰を掛けることにした。

「私に尋ねたいこととはどのようなことなのでしょうか?」

「いえ、それほど大それた事ではないんですが」

 そう言いながらも彼女の表情からは笑顔が消えている。代わりにあるのは獲物を追う漁師のような真剣な眼差し。

「あなたは何故この依頼をお受けになったのですか?」

「何故って、それは核兵器を使用させるわけにはいかないと思ったからです。それ以外に理由はありません」

「本当に?」

 アリオーシュとマリア、二人の視線がかち合う。マリアの視線は凄みを帯びており、アリオーシュは知らない間に腰を後ろに下がらせてしまっていた。ブラックゴートの目的を受けた理由は今言ったとおりだが、他にも理由がある。

 しかし、それをマリアが知るはずは無いのだが彼女は何か確信があるらしい。だが彼女がそれを知るはずは無いのだ。なぜならばそれはアリオーシュが誰にも話していないから誰も知るはずが無い。

「本当にそれだけなんですか?」

 マリアがずいっと体を前に出してくる、彼女が前に出てきた分だけアリオーシュは後ろに下がる。彼女にはそうさせるだけの気迫があった。だが、このままではいけないと思いアリオーシュは喉から声を絞り出す。

「本当に、それだけです」

 自分で思っている以上に声はか細いものだった。それでもマリアにはちゃんと届いたらしく、彼女は息を吐きながら椅子の背もたれに身を寄せる。

「私には、それだけには思えないんですよね。だって理由がありませんもの」

「理由ですか?」

「そう、理由」

 にこりとマリアは微笑んでみせる。そこに先ほどまでの凄みはない、彼女という人物がどういったものなのかアリオーシュには理解できない。

「うちは雇うリンクスのことは毎回調べることにしてるんだけど、あなたがリンクスになった理由ってテロリストに殺された旦那さんの仇討ちよね?」

「そう、ですが……」

 あまり人が思い出したくない、踏み込まれたくないところにこうもずかずかと入り込んでこられては流石にアリオーシュもいい気分になるはずが無かった。彼女をどうやって追い出そうかいつの間にか考え始めている。

「もしかしたらそれが今のユナイテッド・ステイツ、昔のスター・アンド・ストライプスだったらどうするの? あなたは今、企業に敵対するいわばテロ組織の味方をしていることになるのに。そしてGAの方も私達の動きを察知していたみたいでリンクスを雇っている、ということはカラードに所属しているあなたにはGAが依頼を出していたことを知っていてもおかしくない。なのに、あなたはブラックゴート社の依頼を選んだ。それは何故?」

「報酬が――」

「高かったは、理由にならないわ。あなたはお金で信念を売るような人じゃない、それは社長が言っていたわ。私は社長の言葉を信じているし、本当の理由を教えてほしいの。今回のミッションは失敗できない、それはあなたも分かってもらっていると思うわ。だからこそ聞きたいの、本当の理由を」

「まぁ、大体は分かってるんだけどね」と、小さな声でマリアは言った。彼女は聞こえていないと思っているのかもしれないが、アリオーシュの耳にははっきりと聞こえている。

 大方の予測が付いているのならば、わざわざ訪れて聞くまでのことはない。アリオーシュはそう思うのだが、こちらが何か言わない限り彼女は帰ってはくれないだろう。それに、彼女はブラックゴート社の人間。

 名刺を見る限りでは専属ネクストパイロットと書かれていた。つまり、アリオーシュと共に戦場に出る可能性が高い。一時的にとはいえ戦友になる相手に対して非礼を働きたくは無かった。

「私は――」

 ここまでは言葉に出る、だがその先が出ない。

「私は――」

 言い直してみるがやはり次の句が出なかった。ただ一言「オーエンに会って話をしてみたかったから」だといえば言いだけのこと。怪しまれるかもしれないが、それがこの依頼を受けた本当の理由だった。

 もう一度言葉を出そうとするが、どうしても出てこない。そんなアリオーシュをみてマリアは椅子から立ち上がるとアリオーシュの前に立ち、床に膝をついてアリオーシュの両手を握った。彼女の手の温もりが伝わってくる。

「女同士の約束、あなたが言ったことは誰にも言わない。私にもそういうことはあるから」

「じゃあ本当は察してるんじゃ?」

「あなたの言うとおり、大体は予想できてるわ。ウェイトレスをやっていた時、盗み聞きするつもりじゃなかったんだけれどあなたと社長の会話を聞いていたもの。社長からカラードに依頼を出したと聞いたときから、薄々だけどあなたが来るんじゃないかと思ってたのよ」

 上目遣いで微笑むマリア、そこに悪意は微塵も感じられない。彼女の手の温もりと笑顔のおかげで、アリオーシュは喉のつかえが取れたような気がした。

「オーエン氏に会って、もう一度話をしてみたかったんです」

「やっぱり、私の予感は大的中ね」

 そう言うと嬉しそうに彼女は唇を歪めてアリオーシュの手を離して立ち上がる。次は何を言ってくるのだろうかとアリオーシュは身構えていたのだが、マリアはそのまま廊下へと続く扉に向かっていった。もう帰るつもりらしい。その背中に向かってアリオーシュは「待ってください」と呼びかけていた。

「なぁに?」

「なんでそんなことを聞きに来たんですか?」

「ん〜、なんていうか恋する女性を見るのって楽しいじゃない」

 瞬間、アリオーシュは自分の顔が火照るのを感じた。オーエンに対してそんな感情は抱いていない、はずである。心の中にあるのは亡き夫に対する思いだけだ、それを再確認するためにも左手の薬指に嵌めている指輪に目をやった。

「あなた、女の顔になってるわよ。少なくとも、亭主もちの顔には見えないなぁ」

 流石にこれは許せず「なんてこと言うんですか!」と怒声を浴びせかけてしまったが、マリアは気にした風も無く軽やかな足取りで部屋を出て行ってしまう。一人になると静寂がやってきた。

 その中でアリオーシュは何故最後のマリアの言葉に対し否定をしなかったのだろうかと考える。オーエンに対する恋心などあろうはずもない、彼とはブラックゴート本社テラスでただ一度だけ言葉を交わしただけだ。それだけで恋慕の情など沸くはずが無い、湧くはずが無いのだとアリオーシュは自分に言い聞かせた。

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