『Dog and RAVEN』

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 名前の知らないショットバーのカウンターにトレイターは一人座り、飲み慣れないウイスキーをソーダ割りであおっていた。店員が幾つかの銘柄を薦めてくれたのだが、どれを飲んでいるのかもう分からなかった。違う銘柄に変えたとしても味の違いが分からない。

 どこか呆けた頭で酔っているなと感じ、これ以上飲むのは危ないかもしれないと思ってはみても飲まずにはいられなかった。

 レオニスがどこかへ去ってしまった後も、トレイターは一人モニターで中継放送を見ていたのだ。そこに映されたのは完膚なきまでにプロフェットが壊滅させられる映像であり、同じ専属仲間のアンダンテがミラージュ専属のグローリィに一瞬で撃墜されるシーンまでしっかりと映されていた。

 自分が休暇を返上していればと後悔するが、あそこに行けば確実に死んでいたのだと思うと休みで良かったとも思う。けれど、だからこそ自分は生き残ってしまったのだという一種の罪悪感が今のトレイターを苛ませている。

 グラスに残っていたウイスキーを一息で飲み干し、同じものを再び注文した。

 店内は賑わっているが、聞こえてくる会話は一つだけ。プロフェットが負けた、ほぼ全ての客がそのことを話題にして酒を酌み交わしている。店内には十年以上前に流行ったシーナ・クリスティの名曲「帰れない」が流れていた。男に振られてしまい、帰る場所を失ってしまった女の歌だ。

 帰る居場所がないという点では、歌の女もトレイターも同じだった。同じように、帰るべき居場所がどこにもない。一応、休暇はまだ残っているが戦闘が終結した直後から携帯電話はひっきりなしに鳴り響いていた。もちろん彼女は一回も電話を受け取ることはせず、十回目の電話が掛かってきた時から電源を落としている。

 大変な時にいなかったのだ、そんな私を受け入れてくれるはずがないのだ。彼女はそう考え夕方にショッピングモールから出た後、ずっとこのバーに迷い込むようにして入店し、飲み続けている。

 若い女の一人客は珍しいのか、時折視線が向けられているようだった。見世物になっているようで気分が悪いし、それ以上に笑いものにされているような気がする。酔いも手伝ってか思わず泣きそうになるが、ここは人前だ。二十を過ぎた一人前の大人なのだ、女とはいえ泣くことは許されない。

 それにAC専属パイロット、軍人である自分が泣いてはいけないのだとも思っている。兵士である以上、涙はいらない。

 だが泣かずにはいられなかった。嗚咽を漏らしながらカウンターに突っ伏したトレイターの隣に、人が座る気配貸しトレイターの肩が叩かれる。頭を持ち上げて滲む視界で見てみれば、隣には身なりの良いスーツ姿の男が座っていた。年齢は四十を少し過ぎた頃だろうか、オールバックに整えられた髪には白いものがちらほらと混じっている。

「お嬢さん、泣いていちゃいけないな。せっかくの美人が台無しだ、良ければこれを使いなさい」

 男は笑顔でハンカチを差し出し、トレイターはそれを受け取って顔を拭う。

「ありがとうございます、けれど放って置いてください」

「それは構わないが、君はそれでいいのかい?」

「どういう、ことですか?」

「いや、思いつめていたように見えたからさ。もし私で良ければ話を聞こうじゃないか」

「他人のあなたに言った所でどうにかなるようなものではありません」

 そう言ってトレイターはそっぽを向いた。確かに誰かに悩みを聞いて欲しいとは思う、けれど見ず知らずの相手に話そうとは思わない。

「他人だからこそ、言えることもあるんじゃないかな?」

「どういう意味ですか?」

 向き直ると男の瞳と目があった。彼はカウンターにもたれかかる様にしながら、グラスを傾けている。僅かに漂う香水の匂いに、この人ならば話しても良いのではないだろうかと思い始めた。

「言葉どおりの意味さ」

 微笑を浮かべる男の顔をみながら「それじゃあ」とトレイターは話し始めた。専属パイロットであることは言えないため、ぼかしながらではあるが要旨は伝わったはずだ。けれど彼はトレイターの言葉に何も言わず、じっと聞き時折相槌を入れるぐらいだった。けれどそのことが却って真摯に聞いてくれているのだという気がして、トレイターは堰を切ったように喋りだす。

 酒を飲みながら話を聞いていると大分と気分が落ち着いてきた。途中で、トイレに行くために立ち上がろうとすると足元がぐらつき思わず倒れこみそうになる。話を聞いてくれていた男が腕を伸ばしてトレイターの体を受け止め、そのまま抱き寄せた。

「大丈夫? ちょっと風に当たろうか」

 アルコールが大分と回っているのか、何も考えられずトレイターは頷いた。男は好色な笑みを見せていたのだが、彼女は気づかない。男に肩を抱かれながら店の外に出ようとすると、誰かが男の方を叩いた。

 男が振り向くと彼の顔面に拳がめり込んだ。鼻の辺りに入ったらしく、男は白い歯と赤い血を撒き散らしながら倒れこむ。トレイターは何が起こったか分からないが、ただ一言「人の女に手ぇ出してんじゃねぇよ」と言うレオニスの声だけは聞こえていた。


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 右の拳に熱い痛みを感じながら、レオニスはまた厄介な事に首を突っ込んでしまったと思っていた。呆気に取られているトレイターの表情を見ていると憎たらしくなる。今日の出来事は何もかもがコイツのせいなのだ。

 ショッピングモールでトレイターと出会わなければ酒を飲もうという気分にもならなかった。このバーに来なければこうやって男を殴ることも無かったのだし、この男も殴られることはまた無かったのである。

 何もかもがこの女のせいなのだ。

 呆気にとられるトレイターの腕を取り「行くぞ」と一言、周りに聞こえるように言ってから外に出た。店の外に出てからもレオニスは立ち止まらない。その場で留まっていると起き上がってきた男とまた揉め事を起こすだろうし、そうなっては店に迷惑だ。しばらくは起き上がって来れないよう正中線上を打ち抜くようにして殴りはしたが、レオニスはプロの格闘家ではない。早いうちに遠ざかったほうが良いに決まっている。

 トレイターはまだ状況が理解できていないのか、それとも連れ出されたことに怒っているのか、引きざれるようにして着いて来ていた。どこに行くべきか、レオニスは全く思いつかない。留まるわけにも行かないため歩き続けていると、自然と足は自宅へと向かっていた。かといって女性を無理やり自宅に連れ込むことはレオニスの流儀に反する。

 どうすべきか焦っていると、途中に小さくはあったが公園が見つかったのでそこに入った。公園には砂場と滑り台、それにブランコしかなかった。街灯も一つしかなかったが、それで公園全域が照らされている。ベンチが無いためにやむなくトレイターをブランコに座らせて、レオニスもその隣に腰を落ち着ける。

 子供用にブランコであり、座ると膝がかなり高い位置にくるために居心地は悪かった。

「何であんなセックスしたいだけの男に付いて行こうとしたんだよ?」

「レオニスさんには関係ないじゃないですか……」

 怒っているのかトレイターはこちらを向こうともせずにブランコをこぎ始める。レオニスからしてみれば助けてやったわけなのだから感謝して欲しいところなのだが、彼女からすれば自分が危なかったことにすら気づいていないかもしれない。それとも自暴自棄になっているのか。

「関係ないね。けれどな、知ってる女が傷つきそうになってるのを見るのは耐えられねぇんだよ!」

「傷つくも、傷つかないも……私の勝手じゃないですか、私を抱きたいっていう人がいるなら抱かせてあげますよ……もう、どうだって良いんですよ……私には何も残っちゃいないんです、帰れる場所、無いんですから……」

 トレイターの乗るブランコの動きが止まる。彼女の肩が震えていた。街灯の明かりに照らされて、頬に光を反射している筋が見える。これだから女は面倒くさいんだ、と思いながらも放っておくことは出来そうに無かった。もう既に彼女とは知り合いなのだし、その知り合いが傷つき、苦しんでいるのを見過ごすことは出来ない。

 毎度のことながら、レオニスは自分の性格が嫌になり始めていた。煙草に火を吐け、夜空に向けて紫煙を吐き出す。気持ちはちっとも落ち着かない。

「今日、寝る場所あるのか?」

 返事は無く彼女はただ嗚咽を漏らしながら肩を震わせているだけだった。しかしたっぷりと一分程経った頃だろうか、トレイターは小さくはあるが確かに頷いた。

 立ち上がり彼女の正面に立ち、手を差し伸べる。泣きはらして赤くなった目がレオニスを見上げた。

「立てよ。俺の部屋で良いんだったら用意してやるよ、ほら」

 トレイターがレオニスの手を取る。パイロットという職業のせいだろうか、彼女の手は顔とは裏腹に皮が厚くそして荒れ気味のようだった、けれど腕は細い。専属といえど女は女か、などという事を考えながら細腕を引っ張ってレオニスはその胸にトレイターを抱きいれた。

 彼女の背に片腕を回し、力を込めて抱きしめる。トレイターの震えを全身で受け止めながら、空いた手で煙草を摘んで地面に灰を落とした。トレイターが泣き止むまでレオニスはそのままの体制を崩さなかった。ちょうど煙草を一本吸い終えた時、彼女の嗚咽が止んだ。

 手の力を緩めると、彼女は両手をレオニスの胸に当てたままそっと離れる。着ていたシャツの胸の辺りは彼女の涙と鼻水でグシャグシャになっていた。

「ごめんなさい……」

 恥ずかしげに俯く彼女の頭に煙草を持っていなかったほうの手を載せて撫でてやる。

「別に良いよ、それよりも今日はもう寝た方が良い」

 レオニスの言葉にトレイターは静かに頷いた。


/3


 家に着いた時、まずレオニスがしたことはトレイターにシャワーを浴びせることだった。熱い湯を全身に浴びればきっと彼女もスッキリするだろうし、シャワーを浴びている間に部屋の片づけやら着替えの用意をしてやることも出来る。

 整理整頓を心がけていたわけではないが、元々物が少ないせいですぐに部屋は片付いた。着替えは適当なシャツとジャージを出せば良い、しかし問題は寝る場所だった。レオニスの部屋にはベッドが一つしかない。ゆったりと寝たいためにセミダブルのベッドを使っているため、無理すれば二人で寝ることだって出来るだろうがそれは出来ない。のんびりと寝たいところだが、今はトレイターの事を優先してやった方が良い。

 クローゼットの奥から来客用のクッションと、予備の毛布を引っ張り出した。クッションを二つか三つも敷けば布団の代わりにはなるだろうから、レオニスはそこで寝るつもりだった。

 気づけば水音が止んでおり、レオニスが用意したシャツとジャージを着たトレイターが洗面所から出てきた。彼女にベッドで寝るよう促し、レオニスも自身がシャワーを浴びるために洗面所に入る。そこでレオニスは我が目を疑った。

 トレイターが無防備なだけなんだろうが、ブラジャーが置きっ放しになっている。桃色の可愛らしい下着だなと思うと同時に慌てて視線を逸らした。見て良いものでもない。

 頭から熱いシャワーを浴びていると、今日一日の疲労が洗い流されていくようだ。そして厄介ごとを抱え込んでしまったことに後悔する。専属をかくまうことになりはしないだろうか、危険人物として認定されてしまわないだろうか。

 保身を図るならばトレイターを売るのが一番良いに決まっている。けれど彼女は既に知人であり、知った相手を売るなどという真似はレオニスは到底出来そうに無い。こうなれば最後まで付き合ってやるしかないだろう。思わず溜息が出た。

 一日の汗を洗い流し、無地のTシャツとジャージを着て部屋に戻ると、トレイターは寝ていなかった。レオニスが自分用にと出していたクッションの上に三角座りで座っている。

「早く寝ろ。気が楽になるぞ」

「そうですね……でも……」

「でも? どうした、何かあったか?」

 レオニスの問いに彼女は答えなかった。じっとレオニスの瞳を見つめていたかと思えば、おもむろに立ち上がりシャツを脱いだ。彼女の細い体のラインが露になり、小ぶりな乳房がはっきりと見えた。レオニスは思わず素っ頓狂な声を上げてしまったのだが、彼女は気に留めた様子も無くレオニスに抱きつく。

「抱いてください、お願いします……」

 この一言でレオニスは彼女が一体何を考えて、何を求めているのかが分かった。出来るだけ彼女の望むようにしてやりたいが、果たしてそうしてしまっていいのだろうか。

 トレイターの肩を掴んで引き離す、彼女の瞳が震えていた。

「傷つき、たいのか?」

 頷く。

「何で?」

「私だけ、私だけなんですよ……私だけ何もしなかったんです、みんなが必死に戦っていたのに……私は何も出来なかった、傷つかなかったんです……そんなの、不公平ですよ」

 彼女の声は震えている。

「不公平かもしれないけれど、気に病む必要は無い。トレイターは休暇だったんだろう?」

「レイラです」

「え?」

「レイラ・マクネアー。私の本名です、それで呼んでください」

「分かったレイラ。君が気に病む必要なんて無いんだ、君は運が良かった、ただそれだけなんだから」

「でも、でも私は……」

 また、トレイターいやレイラの肩が震えだした。これで良いのかどうかはレオニスに判断が付かなかったが、彼女の顎を軽く持ち上げてその唇を奪った。触れ合わせるだけの軽いキス。

「後悔、しないのか? 俺で良いのか? レイラが満足するなら抱こう、けれど本当にそれで良いのか? 傷ついて、いいのか?」

「はい……レオニスさんなら、きっと後悔はしません」

「そう……」

 女を傷つけるのは性に合わないし、やりたくもないことだった。だがこれで彼女の心が落ち着くならとも思う。出来るだけ優しく、彼女が望むようにしよう。彼女が傷つくのならば、自分も一緒に傷つこう。

 レイラに対して恋愛感情と呼べるものは何一つとしてないが、最後まで付き合ってやろう。

 もう一度彼女と唇を触れ合わせる。先ほどのような軽いものではなく、舌まで入れた。それでも出来る限り優しく、彼女が苦しくないように。

 そのまま胸に手を這わせて、彼女をベッドに押し倒す。朝が来るまで、レオニスはレイラの体を抱きしめていた。

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