Brothel
第一話

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 父親の顔は知らなかった、母親の顔も知らなかった。親戚なんてのもいなかった。気付いた時には既に一人だった。きっと、生まれた時からずっとそうだったのだろう。

 孤児院で暮らしていた。周りには仲間がたくさんいた。仲間、といっても本当の意味での仲間ではなかった。ただ、彼女と同じ境遇を持っているだけ、共通点があるというだけの仲間。だから話そうとも思わなかった、仲良くなれるわけが無い。周りはみんな敵だった。

 彼女の暮らす地域で紛争が起こっていたらしく、孤児院はパンク状態にあった。食糧は満足に行き渡らない、ベッドの数も足りないし、布団の数も足りない。毎日が戦争だった。孤児を救うための孤児院の中は地獄、当時の彼女は幼いながらもそこを掃溜めのように感じていた。

 だから当然脱走した。ドラマなどでは仲間と一緒に、というのが基本だけども彼女にそんな存在はいない。一人でこっそり、懐中電灯と警棒を持って巡回する先生達の目を掻い潜って夜の街に逃げた。

 だけど、そこに行ったところで何かがあるわけではない。孤児院の中が惨状を呈しているというのに、外がそれより良いことは決してない。それが解っていれば良かったのだろうけど、幼かった彼女にはそれが解らなかった。

 食べ物を得ようにもお金なんてあるはずがない、仕方が無いから残飯を漁る。けれどろくなものは無い。手に入るのはせいぜい腐りかけの物ぐらい、それを手に入れるのためには野犬と争うしかなかった。

 そんな生活をしていたある日、路上で寝ているとすぐ隣に黒い車が止まった。車体は磨き上げられて輝いており、乗っているのは富裕層の人間だと一目でわかる。自分とは全く無縁の生活をしている連中だ。その車を羨ましく思いながら見ていると、後部座席のドアが開いた。中から皺一つ無いスーツを着用し、口ひげを生やした中年男性が降りてきた。彼は彼女を見下ろすと、目尻に涙を浮かべてこう言った。

「何ということだろう。このような少女が泥にまみれて路上で寝るとは、いつから世の中はこんなに腐ってしまったのだろう。おぉ、神よ」

 何を言ってやがるこいつ、と思いながら睨みつけたのだが中年男性は気付かないようだった。目尻に涙を溜めつつ、笑顔で手を差し伸べてくる。

「さぁお嬢さん、そんなところにいてはイケナイ。君のような子供はもっと良い所で、スクスクと育つ権利がある。そして私達大人にはその場を提供する義務がある。さぁ、私と共に来たまえ」

 胡散臭い台詞だ。言っていることの意味すらよく分からない、放っておいて欲しくて寝返りをうって背を向ける。

「怖がらなくていいんだよ、お嬢さん。私の言っていることが嘘だと思っているんだろう? そうなんだろう? でも本当なんだよ、さぁ、あそこを見てご覧」

 見るぐらいならいいだろう、と再び寝返り。後部座席の様子が見えた、中は豪奢なつくりになっていた。その中に自分とさして年齢は違わないだろう少女が座っていた。彼女はフリルの付いた純白のドレスを着ており、オレンジジュースを飲んでいた。

「ねぇ叔父様、早く行きましょうよ。あら?」

 後部座席の少女が、路上で寝ている彼女に気付いたようだ。興味を引かれたのか降りてくる。ドレスの少女は路上で寝ている彼女を哀れそうな目で見下ろした。同情なんてしないで欲しい、私に構わないで欲しい。そう思い再び寝返りをうとうとした。

「ねぇあなた、そんな所で寝ていて寒くないの? 叔父様のところに来ればふかふかのベッドで眠ることが出来るのよ? それに暖かくて美味しい食べ物も貰えるのよ。あなたにとっては疑わしいでしょうけど、私だってあなたと同じように路上で震えながら眠り、腐った食べ物で飢えを凌いでいた日々もあったわ。だけど、叔父様が拾ってくれたからこんな綺麗なドレスを着れるようになったのよ。ねぇ叔父様?」

 ドレスの少女が中年男性を見上げた、中年男性がうんうんと頷く。

「だからあなたもいらっしゃいよ。叔父様は私以外にも、あなたみたいな子たちをいっぱい養ってるの、だから安心して付いて来ていいのよ」

 ドレスの少女を見上げる。彼女は微笑んだ、そこに他意は感じられなかった。そうなると、あるのはただ羨ましいという感情だけ。彼女のようにドレスを着てみたい、それ以上に、彼女が飲んでいたオレンジジュースを飲んでみたかった。孤児院にいた時、ジュースなんて豪華な物は出てこなかった。飲めるものといえば、濁った水だけ。

 中年男性が手を差し出してきた、拒む理由は無い。何よりも、ジュースを飲んでみたかった。だからその手を取った。彼は満足そうに笑みを浮かべて、「さぁ、友達が待っているよ」と嬉々とした声で言った。

 車に乗って連れて来られたのは豪奢なお屋敷。中年男性に手を引かれて門を潜って中へ入る。玄関までは百メートル以上ありそうに見えた。玄関と門の間には噴水があり、それは夜中である今でも水を吐き出し続け、周囲に設置されたライトに照らされてその飛沫を輝かせていた。

 玄関に近付くと内側からひとりでに扉が開いた。自動ドアかなと思っていたが、中に入ると違うことが解った。二人の男性が両開きのドアを手動で開けていたのだ。中年男性が入るとすぐに玄関で待ち構えていた肩を出し胸を大きくはだけたドレスを来た綺麗な女性が頭を垂れた。

「お帰りなさいませ旦那さま」

 その女性は頭を下げる時に彼女に気付いた。

「旦那さまそちらに連れてらっしゃる少女は?」

 女性の質問に中年男性はウィンクで答えた。それだけで女性は全てを理解したようだ、中年男性に向けて頷いた後、微笑を浮かべながら彼女の全身を見た。

「あらあら可哀想に、全身そんなに汚しちゃった。そんな襤褸切れみたいな服を着ちゃって可哀想に、すぐに綺麗にしなきゃね。それに可愛いお洋服も用意してあげる」

 女性に手を取られて歩き出す、握られた彼女の手はすべすべで柔らかくとても暖かかった。歩きながら女性は彼女に名前を尋ねてきた、彼女は「マリア」と蚊の鳴くような声で言うと、女性は「まぁ」と言って口に手をあてて驚いた。

「凄い、私もマリアって言うのよ」

 女性、もとい大人のマリアは嬉しそうだった。その喜びからか彼女の足取りは先程とは少し軽くなった。歩くたびに、香水のものと思われる華やかな香りが強くなってくる。まるで天国みたいだと思った。

 その後、場の空気に圧倒されているといつの間にか服を脱がされ浴室に入れられていた。浴室内は広く、立ち込める湯気で反対側が見えなかった。浴槽の縁にはマーライオンが口からお湯を吐き出し続け、浴槽内には何種類ものハーブが浮かんでいた。

「さっ、入ろうかマリアちゃん」

 後ろからやってきたマリアに促されて、浴槽内に足を浸す。もうもうと湯気が立ち込めているため、湯温は高めかと思っていたが結構ぬるめだった。恐る恐るつかろうとすると、後ろから肩を押され一気に浴槽内に押し込められ、飛沫が上がった。

「何するのよ!?」

 振り向きながら怒鳴るが、怒鳴られたマリアはなんのその。微笑みながら「気持ちいいでしょ?」と聞いてきた。その笑顔を見ると怒る気が削がれた。すると湯の温かさが身に染みた。


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 風呂から上がると、個室に通された。それほど大きな部屋ではなかったが、天蓋つきのベッドに鏡台が置かれて十分に豪華と言える部屋だった。

「今日からここがあなたの部屋よ、マリアちゃん。ん〜、それにしてもややこしいわねぇ。ねぇマリアちゃん、いっそのこと名前変えちゃわない? 今日からあなたは新しいあなたになるの、今までのあなたを捨てて生まれ変わるの。そのためにも、新しい名前にするっていうのはどう?」

 でも、と言いかけたが止めた。部屋を見渡す、豪奢な部屋、これが今日から暮らす部屋なのだ。さっき入ったお風呂も気持ちよかった、食事もきっと美味しいものを食べさせてくれるに違いない。今までとは全く真逆の生活、孤児院とも路上生活とは天国と地獄ほどにかけ離れた生活をこれから送る。

 そう考えると、彼女の提案も良いものように思えてきた。昨日までの自分を捨てて、今日から新しい自分になる。だったら過去を捨てると同時に名前を変えれば、きっとそれは完璧なものに鳴るはずだ。そう考えて、マリアは頷いた。大人のマリアは提案が受け入れられたことが嬉しいらしく、笑顔を浮かべながら人差し指を口元に当てた。いい名前が無いか考えているのだろう。自分でも考えてみたが、いいのが思い浮かばなかった。

「そうだ、ベアトリーチェっていうのはどう?」

「ベアトリーチェ?」

 二度、三度とその名を自分で呟いてみる。良い名前だな、と思った。

「いいの?」

 訪ねるとマリアは「いいのよ、だってあなたの名前じゃないの」と言った。

 胸の中、嬉しさがこみ上げてくる。こんなに嬉しいと思うのは初めてだった。「ベアトリーチェ、ベアトリーチェ」何度も口に出した。新しい名前が嬉しくて、そしてこれから来る新しい毎日が楽しみで。

 次の日の朝、小鳥の鳴き声で目を覚ますとマリアが部屋に入ってきたところだった。

「お早うベアトリーチェ」

 彼女の笑顔にこちらも笑顔を返し、「お早うマリア」と言った。

「さぁ早く着替えなさい、お友達が待ってるわ」

 友達、という単語を聞いてベアトリーチェは首を傾げた。今まで友達と呼べる存在がいたことはないし、作った覚えも無いのに友達とはいかなる了見だろう。そういえば、孤児院の先生達もよくみんなを集合させる時に「友達が待っている」と言っていた。行けばただ同年代の少年少女がいただけだったが。ということは、この場合も同じ意味なのだろうか。

 とりあえず、行けば解ると考えて言われるがままにマリアの差し出した服を着た。それはフリルの付いたドレスで、その可愛さにベアトリーチェは思わず声をあげてしまった。マリアが優しく微笑む、それを見て彼女が自分の母親のような気持ちになった。

 着替え終わるとマリアに連れられて長い廊下を歩き、突き当たりにある部屋に通された。とても広い食堂だった、天井からはシャンデリアが吊り下げられ、綺麗に並べられたテーブルにはベアトリーチェとほぼ同年代の少女ばかりが座っていた。入った途端、全員の視線がベアトリーチェに集中する。マリアがベアトリーチェの背中を押して一歩前に進ませる。

「さぁ、自己紹介しなさい」

 マリアが耳元で囁いた。緊張で体が小さくなってしまったように感じ、周囲の視線が迫り来る壁のように思える。けれど、ここは言わなければならない。

「は、はじめまして。べ、ベアトリーチェっていいます」

 そう言って頭を下げた。拍手と歓声が沸き起こった、どうやら歓迎してくれているらしい。少女達が新たな仲間の登場に色めき立っていたが、マリアが手を叩いて音を鳴らすと一斉に静まり返った。

「さぁ、あそこに座りなさい」

 マリアが指差した先には、ちょうど用意されていたかのように席が空いていた。そこに座ると、両隣に座っていた少女が「よろしくね」と小声で呟いた。ベアトリーチェの目の前、テーブルの上にはパンとサラダにスープ、それに牛乳が置かれていたが誰も口をつけてはいないようだった。

「それじゃあ皆さん、食前のお祈りをしましょうね」

 マリアが言うと、皆一斉に両手を組み祈る姿勢になった。ベアトリーチェも見よう見まねで同じようにする。全員の準備が終えた事を確認したマリアが、祈りの文句を唱える。少女達も同じ言葉を唱えてゆく、ベアトリーチェもそれに続いた。文句を言い終わると同時、食事が始まった。パンは焼きたて、スープは温かく、サラダは新鮮、牛乳の味も濃厚でとても美味しかった。

 食事前に祈りの文句を唱えたり、また自分も含めて皆ドレスと呼べるような服装なせいか広間全体には厳粛な空気が漂っていた。今までそんな食事を経験したことのないベアトリーチェは何をどうしたらいいのか分からない。きっと周囲は黙々と食事を勧めている、喋ってはいけないのだと思った。

 どうしようどうしよう、それだけがベアトリーチェの頭の中を巡っている。隣や向かい側に並んでいる同年代の少女達は、新しく来たベアトリーチェがどうしても気になるらしくちらちらと視線を送ってきている。やはりここは挨拶をした方が良いのだろうか。けれど、話して良いのだろうか。

 葛藤が生まれるが、みんなとは仲良くしたい。監督役らしいマリアは違うところにいる、場所は遠い。少しぐらいなら話しても大丈夫だろう。ベアトリーチェはそう決断して、「初めまして」と呟いた。緊張していたために上手く発音できたか解らない。周囲の反応は無かった。何をされたというわけでもないが、冷ややかな視線を感じる。誰一人としてそんな目で彼女を見ているものはいなかったが、何故かそんな気がした。

 胸の辺りが締め付けられ、さっきまであった食欲が急に失せていった。どうしようどうしよう、半ばパニックに陥りかけた頃周りからクスクス、クスクスと笑い声が漏れた。あぁ、きっと変なことをしてしまったのだだから私は笑いものにされたのだ。ベアトリーチェが自己嫌悪に陥りそうになった時、向かい側に座っていた少女が満面の笑みで「よろしくね、ベアトリーチェ」と言ってくれた。それを皮切りに、周りに座っていた少女達が我先にとベアトリーチェへ声を掛け始め、ついで質問攻め。

 どうしていいのか分からなくなった。けれど、これは心地よい。こんな楽しい食事をしたのは、今までで一度も無かった。純粋に、ただただ楽しかった。

あとがき
ベアトリーチェの過去話です。彼女に何があったのか、元々はFINALの話だったんですが別にこっちでも良いんでねこっちでやることにしました。

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