『戦女神 前編』

/1

 目覚まし時計のアラームを設定した時刻よりも早くにアルテミスは目を覚ました。文字盤を見てみれば、セットした五分前。今は七時五五分だった。隣ではまだミカミが僅かに口を開けて寝息を立てている。熟睡しているらしく起こしてしまうのが悪いことのように思えたアルテミスは時計のアラームを解除した。

 彼は今日なんの予定も入っていない。入っているのはミカミではなくアルテミスの方だった。ミラージュからの依頼を受けており、昼すぎぐらいに前線基地のひとつに赴くことになっている。

 受けた依頼はテロリスト部隊の野営地を襲撃すること。殲滅させることが主任務だが、目的はといえば基地の防衛となるだろう。現在、ミラージュはプロフェット粛清戦の損耗から完全に立ち直っておらず、主力の専属ACも一機が戦闘不能の状態にある。そのような状況だからこそ、危険因子は出来る限り早いうちに取り除こうという考えなのだろう。

 実際、状況から察するにテロリスト部隊の目的地はミラージュ基地だと簡単に予測することが出来る。そしてその裏にどこかの企業がついていることも明白だ。何故ならば今回殲滅する予定のテロ組織の名前は今まで聞いたことが無い名前だからである。レイヴンである以上は世界情勢はもとより、各地の武装勢力についても情報を仕入れている。

 ミラージュのような大企業を相手に直接攻撃を仕掛けることの出来るテロ組織などたかが知れているし、インディペンデンスを除けば大抵はどこかの中小企業の飼い犬に過ぎない。今まで名前を聞いたことが無いということは新興組織であると考えて良いし、そうでないのならば強力なパトロンを得たということだ。

 そうでなければ武装勢力が機械化された戦力を保持することなど出来はしない。そういった存在がいてくれるからこそ、レイヴンの職業が成り立っている一面もありそう考えてみると複雑な気分になるアルテミスだった。

 金で動く傭兵をやってはいるが、テロリストを相手とした非正規戦は好きではない。仕事自体は楽で良いのだが、やることはといえば結局のところ虐殺以外の何者でもないのだ。テロリストは企業の軍隊のように充分に訓練された人間ばかりで構成されているわけではない。長年ACに乗っているアルテミスの敵になるはずもなく、一方的な殺戮で終わるのが常だ。

 どこか虚しいと思ってしまうのは、兵士ではなく戦士であるからか。それとも心の奥底では戦争を否定しているからなのか。ACに乗り始めた頃から戦う意義について考えることを辞めてしまっているアルテミスに答えは出ない。出そうとは、思わなかった。

 シャワーを浴びて顔を洗ったあとは簡単な化粧を施してスーツに着替える。どうせパイロットスーツでいる時間の方が長くなるのは目に見えているのだが、大企業に赴くのであれば礼節を持った服を着ていくことにしていた。特に今日行くのは昔“世話になった”ミラージュなのである。

 玄関で靴を履こうとしたが、その前にアルテミスはあることを思い立って部屋の中へと戻った。まだミカミの寝ているベッドの側に立ち、上半身をかがめてそっと彼の額に唇を触れさせる。ミカミの口から僅かに息が漏れて起こしてしまったかと思ったが、すぐに先ほどまでと同じ寝息を立て始めて安心した。

 付き合い始めて長いのだし、今では同棲に近いこともしている。だから寝ている彼の額にキスしたぐらいで恥ずかしがることは何も無いはずなのだが、まだアルテミスの中には気恥ずかしさが残っていた。


/2


 ファクトがこの世で憎悪を抱いているものがただ一つだけある。それは左腕だけを赤く染めたAC、イリスだ。そしてそのパイロットであるミストレスについては言わずもがなのこと。まだファクトが強化手術を受ける前、イリスはファクトに恐怖を植えつけた。怖れは怒りとなり、そして憎しみとなる。

 人間であることを捨て、強化人間となる道を選んだのも全てはイリスそしてミストレスのせいだ。彼女と出会うことが無ければファクトはきっとそれなりのレイヴンとして生きていただろう。だが全てはレッドレフティによって全てが狂った。ファクトは人間であることを辞め、修羅となることを選んだ。

 結果としてファクトはアリーナでも上位に入り、レイヴンとしては高名な存在となることが出来たのだが、果たしてそれが良いことだったのか答えられる人間は一人もいないだろう。ファクト自身ですら分からないことだ。圧倒的な恐怖から逃れるために、ファクトはレッドレフティを追い続けている。

 だが中々彼女と戦える機会は巡ってこなかった。一度、バルカンエリアで勃発したインディペンデンス紛争の際に交戦したが、その時も初戦時と同様撃墜されている。恐怖は増大しただけであり、払拭することは出来なかった。連日連夜見る悪夢はその激しさをより一層増してファクトを苛む。

 新たな恐怖は新たな怒りとなり、憎しみを生む。今のファクトは亡霊と言って良かった。但し、彼は今もここエリア・オトラントに存在している。生ける亡霊、存在する亡霊。彼の機体の名の通り、イグジストファントムとして。

 そして今彼は、企業解放戦線という名のテロ集団の野営地でその機体を眺めていた。この企業解放戦線というなの組織がいつ出来たのかファクトは知らない。彼もまたレイヴンである以上は必要最低限武装組織の勢力の情報を得るようにしているのだが、企業解放戦線という名は今の今まで聴いたことがなかった。

 おそらくは新鋭の組織なのだろう。レイヴンを雇う金も余り無かったと見えて報酬も低額だった。はっきり言って、新人レイヴンが受けるような額でファクトのようなアリーナ上位のレイヴンが動くわけも無い。企業解放戦線の連中もそれは自覚していたようで、ファクトがアークを介してこの依頼を受けた時、狂喜乱舞とまではいかないにしても悦びの色を露にしていた。

 ファクトとしては彼らの馬鹿さ加減に呆れていたわけだが。

 本来ならファクトとて低額の依頼は受けない。レイヴンとしての経験を積むに当たって、機体に要求するレベルというのものは高くなってくる。そうなってくると必然的に使用するパーツの精度も高いものを使用しなければならないし、そのためには維持費用をよりかける必要が出てくるのは自然だ。だから低額の依頼は受けないようにしている。

 だというのにファクトがこの依頼を受けたのはレッドレフティが出てくるという事前情報を得ていたからである。確かな筋からとはいえ信憑性は妖しいのだが、それでも僅かな可能性に賭けるしかなかった。そうでもしなければ耐えられなかったのだ。

 機体から視線を降ろして、スーツに包まれた自分の手を見ると僅かながら震えていた。薬が切れているわけではない、恐怖から来るものだと自覚している。だからこそ、だからこそレッドレフティをこの手で撃ち落さなければならない。しかし、果たして出来るのかという想いが確かに存在している。

 恐れてはならない、そう自分に言い聞かしはするのだがどうしても逃げ切ることが出来ない。思い出す、初めて出会ったときの圧倒的な強さを。二度目に相対したときの、化け物じみたあの機動を。翼のように見えたオーバードブーストの燐光が忘れられない。グレネード弾をガトリングガンで撃ち落した射撃精度を。

 それらのどれもが恐怖となりファクトを苛む。イリスの姿を少し思い出しただけだというのに、ファクトの眼前にはあの時の光景が蘇る、消えぬ恐怖と共に。思わず叫びだしそうになるが必死に堪える、それでも体の震えは止まらない。両肩を抑えてその場にしゃがみ込んだ、いつの間にか玉の様な汗が額に滲んでいた。

 周りにいた企業解放戦線の構成員がひそひそと話し始めた。ファクトの様子を見て不審に思っていることは考えなくとも分かることだ。仕事を依頼した相手がこのような情緒不安定な人間だったら、誰しもが不安に思って当然だった。

 彼らの声は聞こえてこなかったが、内容のことを考えると違うんだ、と叫びたい衝動に駆られる。そんなことをしても状況を悪化させるだけということは分かっているのだが、この恐怖を理解して欲しいと思ってしまう。このままでは行けないと、懐から取り出した精神安定剤を口の中に放り込み噛み砕いた。

 実際にが効果が現れ始めるのはもっと後なのだが、薬を飲んだということが気持ちを落ち着かせ体の震えを取り除いた。深くを息を吸い込めばもう恐怖は無くなっている。代わりにあるのは湧き上がるものは憎悪だった。必ずやレッドレフティを葬る、復讐心がファクトの心を捉えて離さない。


/3


 ミラージュの関連施設に来るたびミストレスことアルテミスは一種の感慨めいたものに襲われる。とはいえ懐かしさとは程遠いものだ。この企業には嫌な記憶しかなかった。

 戦災孤児となった時、保護という名目で拉致されその後に待っていたのは人体実験だったのだ。AC用の強化人間ではなく、アルテミスに行われたのは薬物とそして精神操作による強化であったため身体的な後遺症は少ない。それでも強化人間の実験体にされたということは心の中に傷跡として残っている。

 出来ることならばミラージュからの依頼は受けたくないというのが本音なのだが、生業としている以上はえり好みは出来ない。そんなことをしなくとも食べていけるだけの実力は既に得ているのだが、あくまで中立としての立場を保とうとするのならばミラージュからの依頼も受けなければならない。

 レイヴンの駆るACという機動兵器の力は個人で扱いにはあまりにも大きすぎる。もしどこかに肩入れしようものならば、それなりの影響を周囲に与えてしまう可能性があった。アルテミス個人としては世情を動かしたくないのだ。出来ることなら、今のまま。定期的に紛争が起こり続けてくれる世の中を望んでいる。

 そうすればレイヴンとして今の生活を続けていける。変化が無い日常を過ごしたい、それがアルテミスの望みである。今までと同じようにレイヴンとして働き、ミカミと暮らす。それさえあれば他には何も望むべきでは無いだろう。もちろん本音を言ってしまえばもっと上を望んでいる、出来ることならば家庭を持ちたい。けれどそれは高望みだと思うのだ。

 理由はと問われたところできっと答えられない。しかしレイヴンとして多くの血を流してきた自分に家庭を持つ幸せだけは、手に入れてはならないことだと思うのだ。

 ラウンジのソファに座りながらアルテミスは昔の出来事を回想していたのだが、場所が場所だけにどうにも良い事を思い出すことは無い。レイヴンをやっていて良かったと思えることがあまりにも少なすぎた。ミラージュにいたころは辛いことしか無く、解放された後は虚無の日々が続くだけだったのだ。

 それが変わったのは全てミカミと出合ったからだろう。時折、彼は自分にとって何なのだろうかと考える時がある。最初に会ったのは戦場で、敵同士だった。その時ミカミが乗っていたのは軽量ニ脚ACで、武装はライフルとブレードしか無い貧相なものだったことを覚えている。

 だというのに、ミカミは当時からレッドレフティと呼ばれ畏怖されていたアルテミスを撃退したのだ。興味が湧いたのはそれが最初だったのかもしれない。あんな貧弱な装備のACに撤退を強いられた、というよりかは彼の迫力に魅かれたのかもしれなかった。付き合い始めてそれなりの年月が経つが、何故一緒にいるのかが分からない。

 アルテミスとしてはミカミと一緒にいたい。彼といれば何故か落ち着くことが出来る、だが彼はどうなのだろうか。彼は本当に私を必要としてくれているのだろうか。悩みは尽きないが、彼の顔を見ているときっと好いてくれていると思う事が出来るのだがちょっと離れるとすぐこれだ。

 きっと彼を常に独占していたいという欲望があるのだろう。はしたない事だと思いつつも、この想いだけはどうにも出来ないのだった。会いたい、一緒にいたいという衝動だけがアルテミスの体を突き動かそうとする。

 砂糖もミルクも入っていないブラックコーヒーを一息に飲み干した頃、アラームが鳴り響いた。壁を通してでも慌しく動き始めた人々の足音が聞こえてくる。アルテミスも急がなければならないのだが、走ることはしなかった。

 悠然と立ち上がり、パイロットスーツの襟元を締めてヘルメットを小脇に抱える。カツカツと足音を鳴らしながら向かう先は、左腕だけを赤く塗られたAC。虹の女神の名を冠する彼女の愛機だ。

次へ
倉佳宗作品一覧 小説TOPへ